イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出した神は、民に十戒を示して、神が求めておられる服従の基準を明らかにされた。それは元々、人間の心に刻まれた道徳律法であるが、堕落によって、人間はこれを見失った状態となっているものである。神はモーセの時代に、この明確な基準を石の板に記し、改めてお示しになった。神が人に何を求めておられ、また人と人との間で、何を大切にして生きるのか、明確な基準が示され、神の民はもちろん、全ての人が従うべき道徳律法そのものが、十戒によって明らかにされたのである。神の民イスラエルは、救いの恵みに与った者として、感謝をもってこれに従うことを求められていた。戒めを守るなら救われるというのでなく、救われたからこそ神に従うことが求められている。大切なことは、この戒めを、果たして完全に守れるのか、そのことに気づくのか、その視点であった。心の奥底にある思いこそが、神によって問われているからである。
1、問82「神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか。」 答「ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています。」 「だれも神の戒めを完全には守れず」との指摘とともに、「日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています」と、私たち人間の日常を言い当てている。神が私たち求めておられる正しさは、思いと言葉と行いにおける正しさであり、内面も外面も整えられているかという、神の目の前での完全さにある。そして、その完全さは、最初の人アダムの堕落によって失われている。「ただの人」とは、生まれながらの全て人のこと、全ての人が、罪ゆえの弱さと愚かさの中に生まれ、神の聖さや正しさから遠く離れた、「ただの人」となった。ところが、堕落したとは言え、神は尚も、神のかたちに似せて造られた人間を、尊い存在として生かし、良心の働きを備え、善良で正しく生きるよう許して下さっている。そのようにして、私たち人間は、この世で、堕落仕切ってしまうことなく守られている。けれども、「この世では、だれも神の戒めを完全には守れず」という現実、これを認めなければならない。聖書はその事実を繰り返し指摘する。(9節以下)
2、しかし、私たち人間は、この罪の現実を認めるのを極力避けようとしている。神の民イスラエルは、戒めを守ろうとし、内面を棚上げして、外面的な正しさを競った。特に十戒の後半の教えに関して、抜け道を設け、外面的な正しさを追い求めた。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、そして「盗んではならない」との戒めにおいて、人々の内にある思いは脇にやられ、目に見える正しさを問い、それで済まそうとした。また心の底からの礼拝より、儀式的な盛大さが重んじられたり、周りの人と比べての信心深さなどが、人々の拠り所となった。同じ問題、同じ傾向が、今日の私たちにもあることを気づかされる。実際に人を傷つけるのか、殺してしまうのか、姦淫の罪を犯すのか、盗みを働くのか・・・等々。心の中では、憎しみや怒りを膨らませても、顔には決して出さないまま、親切な言葉を発するのはさほど難しことではない。主イエスがこの地上を歩まれた時、律法学者やパリサイ人の偽善を責めておられるのは、そのようなことについてであった。心の内側の思いも、心の外側に表れる言葉や行いも、神がご覧になるからである。(マタイ15:1-20)
3、神が私たち人間に求めておられる正しさと聖さ、神の前に義とされる基準は、「思いと言葉と行い」におけるものである。十戒はその基準を明確に示しており、その戒めに照らして私たちが生きるよう、日々自分を正すよう求めている。「神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか」と問われるなら、「だれも神の戒めを完全に守れず」、更に「日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています」と、私たちは、正直に告白しなければならない。それも、「日ごとに」破っている事実を、特に覚えなければならない。誰一人この事実を言い逃れることはできない。十戒の各戒めが問うこと、私たちに迫ることは、自分自身を知るようにということであって、自分の罪や弱さを知ること、神が求めておられる聖さ、善、正しさ、義の基準と、私たちがどれだけかけ離れているか、その厳然たる事実を知ることである。神の前に、本当の意味で正しい人は、一人もいないと、心から認めることである。その上で、神に赦されるには何が必要なのか、何を信じるべきなのか、大切な救いの道に導き入れられるには、どうしたら良いかを知らなければならない。「ただの人は・・・守れない」と言われているのは、「お一人だけ」、守れる方がおられることを暗示している。十字架で身代わりに死なれたイエス・キリスト、この方だけが完全に守ることができ、この方の義が、信じる私たちに与えられる。これが救いへの、唯一の確かな道である。私たちは、キリストを信じて義とされ、救われるのである。(20〜24節)
<結び> 私たちは、神の前に、「思いと言葉と行いにおいて」正しくあることが求められている。しかも「日ごとに」正しくあるように、求められている。にも拘わらず、「日ごとに」神を悲しませる程、私たちは不完全である。その不完全さや愚かさは、自分のことでは、なかなか気づかないものであるが、他の人の姿から、物の見事に気づかされることが多い。先々週、都議会でのヤジを巡って、大騒動が起こった。人権軽視の問題発言があり、一体誰が言ったのか・・・と。発言したのは、一人なのか複数なのか、その内容に関して、口には出さずとも、心の中では、かなりの人が思っていることではないか・・・等々、結局、真相究明には進まない、そんな騒動である。そのまま都議会は閉会して、問題は先送りされてしまった。
私たちにとっての教訓は、日本社会は人権意識が低い・・・ということより、過ちを心から認め、悔い改めることがなかなかできないもどかしさであり、非を認めるのに潔いこと、悔い改めるのに憚らないことの大切さではないだろうか。罪を心から認めること、罪意識の欠如である。白を切り通す不遜な風潮が、この社会に蔓延し、非常に危うい状況があるように思われる。何よりも、生ける真の神の前に出ること、聖にして義なる神の前に、自分の本当の姿を知って、ひれ伏すこと、その真実な悔い改めと信仰が導かれることの大切さを、私たちは、しっかり心に留めたい。そのような信仰に立てるよう、祈ろうではないか。神は、私たちの全てが、悔い改めて神に立ち返ること、そして、イエス・キリストを信じて、救いに至ることを、心から願っておられるからである。私たちの教会に集う全ての人が、確かな救いに導かれることを。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身とお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」
(テモテ第一 2:4-6)
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