礼拝説教要旨(2014.06.22) =ウェストミンスター小教理問答<79><80><81>=
むさぼらず!
(出エジプト 20:1〜17)

 問79「第十戒は、どれですか。」 答「第十戒はこれです。『あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない』。」 問80「第十戒では、何が求められていますか。」 答「第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです。」 問81「第十戒では、何が禁じられていますか」 答「第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せたりすることです。」人と人との関係において心すべき戒めの締め括りは、むさぼる心、必要以上に欲しがる、私たち人間の心の奥底にある、厄介な欲望に関するものである。第八戒の「盗んではならない」を、一層心に留めさせられるだけでなく、第六戒も第七戒も、そして第九戒も、この第十戒と繋がっている。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、・・・」(17節)

1、神が人間に対して求めておられること、人間が神の前に正しく生きる上での大切なことは、目に見える外見上の正しさによるのではない。行いが正しければ、それで善い・・・とは言えない、その大事な点を、第十戒は明らかにしている。それは、第一戒からの全てに当てはまるが、後半の戒めに関して、特に言えることである。心の奥底にある思いが、外に表れ、行いとなるのか、常に注意しなければならない。もし「隣人の家を欲しがって」、自分の家と比べ始めるなら、私たちは、一体どんな思いになるのか。「欲しがる」気持ち、それは「むさぼる」(貪る)心である。必要以上に自分のものとしたい、自分の所有物にならないなら、力尽くでもそうしたいと思う、強欲な思いそのものである。神の言いつけに背いたアダムとエバは、「欲しがる」心が、揺り動かされていた。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」二人は、誘惑された時、踏み止まらなかった。かえって、食べたい、賢くなりたい・・・と思い、そして「神のようになろう」としたのである。(創世記3:4-6)そのようにして罪を犯した結果、私たち人間の心は、常に悪に傾くのである。

2、神は、その罪の根源を問うように、「欲しがってはならない」、あるいは「むさぼってはならない」と、神の民が、心の奥底から、神の聖さに倣う者となるよう命じられた。自己中心にのみ振る舞うのではなく、また自分の欲にただ従うのではなく、「私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とその所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足すること」が求められ、その反対に、「すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せること」が禁じられている。「むさぼり」が、ありとあらゆる罪の根源だからである。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14-15) 次のようにも言われる。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5 )心の奥底にある欲望、また欲求が、ただそのままで悪しきものというのではない。けれども、自分自身について満足せず、周りの人々と見比べ、身近な隣人と比べて自分の不足を数え始めると、必ず罪に誘われる。そのような時、戒めを思い出すなら、踏み止まる幸いが備えられるのである。

3、私たちが生活するこの世の日々は、恐ろしいばかりの誘惑に満ちている。あの手この手で、私たちの欲望は刺激され、周りの人々から取り残されないよう、より早く、より新しく、より豊かに、もっと優れた物があるではないか・・・と、常に追い立てられている。満ち足りて、心穏やかに過ごすのは、周りの人々から遅れた、愚か者の生き方だ・・・と刷り込まれている。けれども、そのような生き方が、本当に幸せをもたらし、人々が安心と喜びを得ているか・・・となると、そうではないようである。先行きの心配、恐れは、益々大きくなっている。富をどれだけ蓄えても、決して本当の安心は得られないことを、多くの人が気づいているのではないだろうか。今の日本の社会は、絶対と言って良いくらい、安心はなく、真実も見当たらず、どうして良いのか分からない、迷いの中に落ち込んでいるのではないか。私たちは、このような時代だからこそ、絶対者であり全知全能の神がおられることを信じ、その神が私たち一人一人を生かして下さっていることを、その神が救い主キリストを遣わし、キリストを信じるよう招いておられることを、心から信じて歩みたいのである。必要を満たして下さる真の神がおられると信じる時、私たちの心は、本当の意味で満ち足りることを知るからである。

<結び> けれども、この第十戒においても、私たちはどのようにこの戒めに従うのか、また何事もむさぼらずに生活することができるのか、はなはだ心もとない自分を見出す。「むさぼらず!」と、心に決めて立ち上がっても、たちまち目の前の現実にたじろぐからである。私たちが、本当の意味で満ち足りるのは、真の富を確かに得ているか否か、そこに行き着かないなら、いつまでも揺れ動くばかりである。第十戒も、守り得ない自分を認め、自分の内にある罪、罪ゆえの弱さも愚かさも、自分では解決し得ないことを認めることへと、私たちを導いてくれる戒めなのである。

 自分では戒めを守り得ないことを認め、そのような私たちを、罪から完全に解き放つため、主イエス・キリストが十字架で身代わりに死なれたことを信じることによって、私たちは、真の富、神にあって永遠に生きる喜びへと導かれるのである。キリストを信じ、永遠のいのちをいただいて生きることとは、真の富をいただき、この世の富に惑わされずに生きる、本当の意味での喜びのある、幸いな生き方へと導かれることである。この世で、何事が襲っても、私たちはキリストにあって満ち足りていると、そのように告白することが導かれる。必ずやむさぼりから解き放たれ、キリストにあって満ち足りる幸いへと、進ませていただきたいものである。