問76「第九戒は、どれですか。」 答「第九戒はこれです。『あなたは隣人について、偽証してはならない』。」 問77「第九戒では、何が求められていますか。」 答「第九戒が求めている事は、人と人との間の真実と、また私たち自身と隣人の名声とを、保ち、高めること、特に証言する時にそうすることです。」 問78「第九戒では、何が禁じられていますか。」 答「第九戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私たち自身や隣人の名声を傷つける事です。」 第八戒は、日々の生活において、自分の持ち物に止まらず、他の人の富や生活状態にも心を配り、その上で満ち足りる心をもって生きているか、そのような視点が込められていた。第五戒以下、全て人と人との関わりにおいて、神が求めておられる生き方の戒めであり、続く第九戒は、私たち人間が、言葉をもって他の人と関わる時に、必ずや明記すべき戒めである。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」(16節)
1、第五戒以下は、対人関係における戒めであり、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」に、必ず繋がるものである。この第九戒が、語る言葉において、偽りから離れ、真実を追い求めるようにと戒めているのは、明白である。そして、この戒めを学ぶ時、また人に教える時、嘘、偽りを避けることを、殊更に強調する傾向があるのも事実である。「嘘をつかないよう」子どもたちに教え、大人には「あらゆる偽りの言葉に気をつけるように」と、嘘や偽りに満ちた日常を、今更のように思い知る。けれども、イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と。(ヨハネ14:6)真の神だけが「真理」なる方であり、主イエスは、「真理をあかしするために」世に来られたのである。私たちは真理である神を信じ、神の前に真実を追い求めるように、と導かれている。モーセの時代のイスラエルの民も、今日の私たちも、神の救いの恵みに与った者として、神の真実なご性質に倣う者として生きることを、大いに期待されている。単に、嘘や偽りを避けることより、もっと積極的に、真実を語ることを求められている。何故か。神にあって、それができるように、力や性質が備えられているというのである。
2、 第九戒が求めているのは、「人と人との間の真実と、また私たち自身と隣人の名声とを、保ち、高めること、特に証言する時にそうすることです」と言われ、その反対のことが、禁じられている。この戒めは、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と命じて、人の名誉や名声を保つことで心すべき一番は、隣人について証言する時であると、注意を促している。言い換えれば、「何事であれ、真実を損なう事、あるいは私たち自身や隣人の名声を傷つける事」のほとんどは、身近な隣人に対して、その過ちを繰り返していると、暗示するのである。最初の人アダムとエバが、神に背いて善悪の木から取って食べた時、たちまち神から身を隠すことをした。そして、神からの問い掛けに対して、最早、正直に答えないようになっていた。アダムは自分の過ちを認めるよりも、エバにその責任を押しつけ、エバも、同じように「蛇が私を惑わしたのです」と言って、自分に正直であるより、責任を他に押しつけた。「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」との戒めに、まさしく反していたのである。(創世記3:1-13)
3、神への背きの罪が入って以来、人は真実を語るより、それをねじ曲げ、事実を偽ることを、平気でするようになっている。それは神の良しとされることではない。もし神に対して、私たち人間が神を中傷し、偽りを並び立てたとしたら、神ご自身が傷つく・・・ということがあるのだろうか。そんなことは全くないことである。それについては、主イエスが語っておられる。「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」(マルコ3:28)神ご自身は、私たちが他の人との関係において、真実を語ること、特に隣人を自分自身のように愛して、その名声を保ち、高めることを、本気で尊ぶようにと、命じておられるのである。隣人の名誉こそ、尊ぶようにと。事実、偽りの証言が、無実の人を犯罪人に追いやることが、聖書の中で、またこの日本の社会において、繰り返されている。(※ヨセフの投獄:創世記39:11-23、イエスの十字架刑:マタイ26:57-68、27:11-31、数々の冤罪事件)私たちは、見たこと、聞いたこと、手で触ったこと等々、何事も真実を見極め、そして真実を語ることに、十分心を配る必要がある。自らのため、隣人のため、真実を追い求め、真実を語ることこそ尊い・・・と。
<結び> ところで、真実を語る、真実を追い求める・・・と言っても、実際にそうは行かないことがある、と反論されるかもしれない。この社会にあって、そんな、きれい事だけ言ってるわけに行かない!・・・と。嘘や偽りを正当化できる時が、必ず有るはず・・・と言う。時には、へつらいの言葉が必要であるとか、嘘も方便と言うではないか、また、人助けのためにつく嘘は許されるのではないか・・・等々。(※ラハブはエリコの町で、イスラエルの斥候をかくまい助けた。ヨシュア記2:1-21)私たちは、一律に「嘘」を定義することはできない。自分の都合に合わせて定義しかねないからである。神が確かに許される場合があり、それは私たち人間が考える「嘘」とは、また別物と理解できる。私たちは「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と命じられていることを、しっかり覚え、「真実を語る」こと、また「真実のみを語る」ことを導かれたい。但し、この戒めについても、私たちは、自分では守り得ないことを知らされる。すなわち、主イエス・キリストにあって、聖霊に導かれ、助けられることがないなら、真実を語ることはできない。私たちがキリストに似ること、キリストが私たちの内にあって生きて下さること、働いて下さることを、祈り求めることがカギを握っている。「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイ5:37) 主イエスの教えに従い、また導かれ、語る言葉を真実なものとされたいのである。
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