礼拝説教要旨(2014.06.01) =ウェストミンスター小教理問答<70><71><72>=
神が定められた結婚の秩序
(出エジプト 20:1〜14)

 十戒は、第五戒「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」以下、神が求めておられる、人と人との関係における戒めである。第六戒「殺してはならない。」では、私たち人間は、自分のいのちも、他の人のいのちも、どちらも本当の所有者は神であることを覚え、これを守るために、「あらゆる正当な努力をすること」が求められている。同時に、いのちを奪うことはもちろん、その恐れのあることは全て禁じられている。続く第七戒は、「姦淫してはならない」と命じる。(14節)その意味について、小教理問答は次のように述べる。問70「第七戒は、どれですか。」答「第七戒はこれです。『あなたは姦淫してはならない』。」問71「第七戒では、何が求められていますか。」答「第七戒が求めている事は、心、会話、振舞において、私たち自身と隣人の貞潔を守ることです。」

1、この戒めを理解する上でも、神が人間をご自身のかたちとして造られたこと、男と女とに造られ、その人間にいのちを与え、生かしておられることを覚えることが、何よりも大事である。神は人間を祝福しておられた。そして「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じておられた。(創世記1:27-28)その時、人間のいのちがどのようにして受け継がれて行くのか、神は結婚を定め、男と女に造られた人間を祝福しておられたのである。聖い神が、一人の男子と一人の女子とが結ばれる結婚を通して、いのちが親から子、子から孫へと繋がることを定められた。この最初の定めを、「姦淫してはならない」と戒めることによって、今一度明確にされた。「いのち」を尊ぶためには、「結婚」を尊ぶことが、何にも増して、「最重要」とばかりにである。「私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすること」の一つとして、神が定められた結婚を尊ぶこと、この視点が求められているのである。

2、私たち人間が、人間として生まれながらに尊い存在であること、人間には人格の尊厳が備わり、一人一人の人格は神聖なものである事実を、私たちは通常、何によって知るのであろう。この世界を造り、人間を造られた神が、結婚を定め、これを神聖なものとされた。そして、家庭を尊いものとして人間に備え、家庭の中で、人が様々な訓練を受けることを意図されたのである。ところが堕落により、神に背を向けた人間は、本来受けるべき訓練が受けられず、人間の思いには、甚だしい歪みが生じている。そのため、人間は、神が意図されたこととは反対の方向へ、ただ向かうばかりである。罪に堕ちた人間の現実は、あらゆる不道徳に犯され、様々な情欲にもてあそばれる、そんな悲惨さも見せている。(※ローマ1:18-32)それ故、「姦淫してはならない」と戒めが語られ、結婚の神聖さを脅かす、あらゆる不正な事柄から身を守ることが求められたのである。神は私たち人間に、神ご自身の聖さに倣うこと、家庭でも、社会でも、「貞潔を守ること」を求めておられるのである。問72「第七戒では、何が禁じられていますか。」答「第七戒が禁じている事は、すべてのみだらな思い、言葉、行動です。」

3、十戒の中で、一番具体的で、守れない戒めとして、この第七戒が私たちに迫るのではないか。これを守ろうとして努力するとしても、この戒めが禁じていることから、全く自由にはなりようがない・・・と思われる。心の思いも問われるからである。(マタイ5:27-32)私自身は、結婚する前も、結婚してからも、この戒めほど、心に突き刺さるものはないと、そのように思えてならない。「心、会話、振舞・・・」において「貞潔を守る」こと、そして「すべてのみだらな思い」と指摘される時点で、もう全てが神の前に露わであるなら、その神の前に顔を上げることのできる人はいない・・・と思うからである。どんなに自分の弱さを認め、また努力しても、もうどうにもならない自分がいる。それこそパウロが告白するように、心から叫ぶだけである。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)主イエス・キリストが十字架で死なれたのは、この罪ある私のためという、十字架の身代わりが分かるのに、この戒めによるのも事実であった。私の罪は、そして罪ある思いや行いは、私自身の決意や努力をもってして、絶対にどうにもならないことを思い知らされる。だから、キリストは身代わりとなって、十字架で死んで下さった・・・と。

<結び> 「姦淫してはならない」の「姦淫」とは、国語辞典によると「不正な男女の関係」とある。あるいは「男女が不道徳な肉体関係を結ぶこと」と。けれども、より厳密には、既婚者による「不正な男女関係」であり、結婚している者が、その神聖な関係を壊す行為、また思いが、先ず第一に問われている。従って男子が女子に惹かれる思い等々、人間が本来持っている感情は、全て悪に傾いているというのではない。神を恐れ、健全で正当な結婚への願いを持つこと、そして結婚して家庭を築くこと、結婚を尊び、家庭において愛を育み、いのちを尊ぶことを学び合うことは、私たち一人一人にとって、大きな務めとなるのである。但し、結婚においても、子育てにおいても、神は私たちに、必ず賜物を与えて、それぞれに違った務めを与えて下さることを、はっきり覚えることが大事となる。生まれながら独身の賜物が与えられている人、子どものいない家庭が、神によって備えられているからである。私たちは、自分がどのように導かれているのか、そして、どのように生きることが期待されているのか、よく祈って考え、いのちの尊さとともに、神が定めて下さった結婚の秩序の尊さ、そして、神聖さを心に留めるよう求められている。人の目の前に明らかな「姦淫」ばかりでなく、心の中の思いまで、神は見ておられることを忘れず、罪の解決は、主イエスの十字架なくして有り得ないことを信じて歩みたい。内なる罪の本当の解決は、イエス・キリストを信じる以外にないことを、決して見失うことなく!!