十戒は、第五戒の「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」を境に、神が求めておられる、人と人との関係における戒めとなる。第五戒は、その全てに関わる基礎となる戒めであった。私たちは皆、あらゆる人間関係において、互いに愛し合い、認め合い、尊重し合うことを土台として歩むこと、神はそのことを命じておられるのである。けれども、罪に堕ちた人間は、何度でも、はっきり神の戒めを心に刻まねばならない。続く戒めは、隣人を愛することの具体的な教えである。問67「第六戒は、どれですか。」答「第六戒はこれです。『あなたは殺してはならない』。」問68「第六戒では、何が求められていますか。」答「第六戒が求めている事は、私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすることです。」
1、「あなたの父と母を敬え」という第五戒を踏まえた上で、第六戒は、人の「いのち」がどれだけ大切なものか、「殺してはならない」と命じる。人の「いのち」が、両親から子に、子から孫に受け継がれて行くものであっても、その大切さ、尊さは、果たして何によるのか。「いのちが一番大切!」と、どんなに叫んでも、神に背を向けた人間にとって、その大切さの根拠を見出すことは、とても難しい。それに対し、聖書は、人が神のかたちに似せて造られたゆえに、人のいのちが尊いことを教えている。神が人にいのちを与え、生きるものとして、世に送り出して下さったのである。いのちの所有者は、創造者である神ご自身、というのが聖書の教えである。それゆえに、私たちは、「私たち自身の命と他人の命を守るために、あらゆる正当な努力をすること」が求められている。人間が人間として尊い存在であること、人間の人格の尊厳さ、また神聖さを思う時、神のかたちに似せて造られたこと、この事実を抜きにして考えることはできない。全ての人が、神からいのちを与えられ、生きるようにと、神にあって生かされているからである。
2、ところで、「いのち」の尊さを認め、「いのち」を守るため、「あらゆる正当な努力をすること」を命じるのに、何故「殺してはならない」と言われるのであろうか。この疑問は、十戒の各戒めについて言えることである。ほとんど皆、「〜してはならない」と否定の命令形である。堕落してしまった人間の、どうしようもない罪性が、隣人を愛することよりも、隣人を危めることに向かうことを、神ご自身が知っておられるからである。罪に堕ちて、良心の自由を歪められてしまった人間は、自分のいのちを、神から与えられたものとは考えない。自分のものであり、自分の自由にできるものと考える。そして、自らのいのちを奪うことをよしとし、隣人のいのちを不当に奪うことへと向かう。問69「第六戒では、何が禁じられていますか。」答「第六戒が禁じている事は、私たち自身の命を奪うこと、あるいは隣人の命を不当に奪うこと、またその恐れのあるようなすべての事です。」実際に最悪の事態へと進まずとも、「その恐れのあるようなすべての事」と言われる事態は、余りにも多く見られる。怒り、敵意、争い、暴力、不正等々、ちょっとでも気を許すと、たちまち膨れあがる。そして、私たち人間の心は制止が効かなくなる。けれども、神の戒めに聞き従うことによって、正しい道を歩むことができるのである。心すべき「あらゆる正当な努力」には、憎しみを抑えることや、社会的正義の追求、医療や福祉の充実、そして、自らの健康管理等も含まれる。
3、最初の人アダムは、神のかたちに似せ、神ご自身の「かたちとして創造された。」(創世記1:26-27) 「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きものとなった。」(2:7) アダムとエバが堕落した後、カインがアベルを殺害する、痛ましい事件が起こった。そのカインの家系には、血の復讐を公言するレメクという人物がいた。やがて人が地上に満ちた時、人の悪が増大し、人が「心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」神は、ノアとその家族だけを残し、この地上を一新しようとされた。(6:1-7) 洪水の後、渇いた地に立ったノアに神が約束されたことの中で、人のいのちの尊さの根拠について、「神は人を神のかたちにお造りになったから」と語られた。(9:5-7) 人のいのちは、神から与えられたもの、神のかたちに造られた私たち人間は、自分のいのちも、他の人のいのちも、どちらも本当の所有者は神であることを、はっきり覚えなければならない。いのちを守ることに心を配り、いのちが脅かされることからは、きっぱりと遠ざからねばならない。そのように第六戒を守ろうとするには、やはり「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との教えを、心に刻んで、これを守れるよう、神からの助けと導きを祈ることが大事である。
<結び> 「殺してはならない」(※「汝殺すなかれ」)とは、単なる殺傷のことでなく、「殺人」を禁じるもの、しかし、そのことに拘る余り、人を殺さねばよい・・・と、抜け道を探るのが人間の常であった。主イエスが山上の説教において指摘するのは、人を殺さないとしても、この戒めを破る事例は数限りないことである。「兄弟に向かって腹を立てる者」、「『能なし』と言うような者」、「『ばか者』と言うような者」は、いずれも、兄弟を愛することからはほど遠い。兄弟との関係が壊れているなら、先ずその関係の修復を願うこと、そのようにして互いに愛し合う関係を尊ぶことを、主イエスは勧めておられる。人の心にある思いが、どれだけ大事で尊いものであるか、その視点を教えておられる。そして、主イエスは、肉体のいのちとともに、「まことのいのち」のあることを教えておられる。私たちは、そのことを覚えたい。
(マタイ5:21-26、16:24-26、ヨハネ第一3:15)
私たちは、この第六戒においても、この戒めを正しく捉え、これに聞き従うことを祈り求めたい。私たちのいのちは、神から託されている。私たちのいのちの、本当の所有者は神ご自身であることを認め、自分のいのちも、他の人のいのちも、全てのいのちが尊く、大事なものとして、その安全が脅かされることないよう、心を配りたい。そのための努力を惜しまないようにしたい。またどんな事態が生じようと、怒りに任せ、暴力に頼るようなことに走らないよう、よくよく注意したい。いのちの所有者は、生ける真の神である。その神の前にあって、「まことのいのち」をいただいて生きること、本当の意味で生かされるいのちを喜び、互いに愛し合う交わりが導かれることを願って、歩ませていただきたい。
「所沢聖書教会」の歴史は、1957年の秋頃まで遡れます。カナダ人のジョージ・ベネット宣教師が伝道を開始し、以後、西所沢周辺を転々としながら、集会が続けられました。4年に一度カナダに帰国されると、その間、集会が途絶えるようなことがあり、所沢に戻られると、集会が復活する・・・とか。
ベネット師が、1968年に宣教師を引退して帰国されることになり、集会継続を願う信徒たちが横山幹雄師を招き、家庭集会の形で礼拝を続け、星の宮公民館で日曜学校を行いました。翌1969年4月ソルトー師を招いて、公民館で礼拝を行うようになり、1970年4月、再び横山師により導かれ、5月から埼玉リースの2階に移転。その頃、横山師に誘われ、柳も関わることになりました。
1971年4月、柳が伝道師として招かれる時、日本長老教会(※当時は日本基督長老教会)との関係が結ばれ、1975年2月長老教会に正式加入。1979年5月20日、3名の長老を選んで小会を構成し、長老政治における「教会設立」を導かれました。以後、毎年5月第3週の礼拝を、「教会設立記念礼拝」としてささげています。教会のかしら、キリストの確かな導きを感謝するばかりです。
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