礼拝説教要旨(2014.04.27) 
復活の主が共におられる
(マタイ 28:16〜20)

 十字架の死から三日目、主イエスは確かによみがえられた。その後、天に昇って行かれるまでの40日の間、弟子たちの前に、度々、姿を現しておられた。その日の夕方、エマオ途上の二人の弟子の前に、夜にはエルサレムで、その少し前にはペテロに、そして一週間後には、トマスもいる所に、弟子たちの目には、不思議としか思えないような形で現れておられた。マタイとマルコの福音書は、その多くには触れず、ガリラヤに行き、そこで弟子たちと会うと告げたことを記している。主イエスの福音宣教の業は、ガリラヤから始まって各地に広まり、またガリラヤから全世界へと広まることを、主が願っておられたことを明らかにしている。もう一度、ガリラヤで弟子たちに会いたいと思われた、主イエスの思いを探ってみたい。

1、弟子たちは主イエスにお会いする度、大いに喜び、励まされ、力を得て立ち上がろうとしていた。一度お会いしたなら、すっかり力づけられるというのでなく、繰り返し主にお会いし、彼らの復活信仰が強められたのに違いなかった。そして、ガリラヤでお会いするのは、いよいよ天に昇る時が近づき、これからは、弟子たちが中心となって福音宣教の業が成されることになるので、そのために彼らを励まそうとされた、そんな時と思われる。主イエスは弟子たちと共に山に登り、そこで大切な教えを語られた。(16節)「指示された山」が、どの山か定かではない。ガリラヤ湖畔の小高い丘なのか、もう少し高い山なのか・・・。一同、そこで礼拝をささげ、主が語られる言葉に耳を傾けた。十一人の弟子たちだけでなく、他にも多くの弟子がいたと考えられる。この時になっても、まだ「ある者は疑った」と言われるほど、復活は信じ難い事柄であった。しかし、このように記されるほどに、イエスのよみがえりは、決して空想や幻ではなかったのである。(17節)

2、主イエスは、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威を与えられています」と、復活の主、また栄光の主としての宣言をしておられる。(18節)その復活の主が弟子たちに語られたのは、あなたがたを、これから遣わす、あらゆる国々に行きなさい・・・との命令であった。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(19〜20節)今や福音は、全世界の人々に届けられるようにと、弟子たちにはっきりと命じられた。「行くこと」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」、そして「教えること」を。弟子たちの一人一人を、ご自身の教会を建て上げるため世に送り出そうとする、主イエスの思いが込められていた。彼らが忠実に務め果たすことによって、神の民である教会は、必ず建てられるからである。

3、主イエスの弟子たちへの命令には、彼らへの期待が込められていた。けれども、果たして彼らが十分に、その期待に応えられるのだろうか。彼らに弱さや愚かさがあることを、主はご存知であった。弟子たちに今、必要なことは、本当の励ましである。何があっても狼狽えることのない完全な力、それは、人間にはない。口では強がったペテロが、真っ先に躓いていた。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)主は、「わたしは、・・・あなたがたとともいいます」と約束された。「ともにいます」の「います」こそ、神が神であられる、最高にして、最大で、完全な証言である。モーセに対して、燃える柴の中から「わたしはある」と言われた神、(出エジプト3:14)「インマヌエルの神」としてお生まれになった主イエス、(マタイ1:23)その主が「それはわたしです」と証言された。(ヨハネ18:5)「わたしはある」「わたしはいる」「それはわたしです」とは、神が永遠から永遠に渡って存在すると、自ら語っておられる言葉である。その永遠不変の神が、弟子たちと共にいて下さるという約束、この約束に優る励ましは他にない。死からよみがえった方、復活の主イエスが共におられる。他に何を恐れることがあるのか、この時、弟子たち一人一人は、大きな大きな力をいただいたのである。

<結び> 人の死、肉体の死を誰もが恐れるのは、世の常であり、その死を逃れられる人はいない。現実に死が襲うことがなくても、人は病を恐れ、また一人で孤立することを恐れる。誰かに分かって欲しい、傍にいて欲しい・・・等々、声を上げずとも、常に助けを求めている。知らずして何かに頼り、祈りをささげている。その点で日本社会の不思議がある。神を信じない!と言いつつ、神ならぬものに祈りをささげる習慣が、余りにも多い。それに対し聖書は、復活の主イエス・キリストがおられることを明言し、その復活の主は、主を信じ、主に従う者に向かって、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と、確かな約束を与えてくれる。肉の目には見えずとも、復活の主が共にいますこと、主イエス・キリストが共におられること、これこそ絶対の安心、勇気の源である。

 弟子たちは、この約束に励まされ、世に遣わされ、やがて全世界、あらゆる国々へと出て行き、イエス・キリストの福音は世界中へと宣べ伝えられた。今日、私たちがこの所沢の地で礼拝をささげている事実、それは、主イエスの命令に従った弟子たちがいたからである。およそ二千年を経て、主の約束の通り、この地にも教会が建てられ、主の命令に従って歩んでいるこの事実! 次は私たちが、主の命令に従い、また主のご期待に応えて歩むことが求められている。大事なこと、それは主イエスの教えに従って歩み続けることであり、その時、主が共にいますことを、決して忘れないことである。復活の主が共におられると信じる人が、一人そこにいること、それが何よりの力であり、証しとなる。徒に恐ればかりが広がり、膨らむこの地上の生活の中で、主に信頼する一人の存在は、家庭にあって、地域にあって、また職場にあっても、大きな力を発揮するに違いない。主にあって平安と勇気をいただいている私たちが、必ずや周りの人に、上よりの祝福を取り継ぐ者として用いられるからである。