受難週を過ぎ、週の初めの日、私たちは、主イエス・キリストの復活を記念する礼拝をささげるために集っていることを、先ず心から感謝したい。全く罪のないお方が、十字架につけられたのは、罪ある私たちの身代わりのためであった。罪の支払う報酬として、ご自分のいのちを代価として支払い、キリストを信じる私たちを滅びからいのちへと救うため、十字架の苦しみを耐え忍ばれたのである。けれども、キリストは死からよみがえり、弟子たちの前に復活のからだをもって姿を現わされた。その復活こそ、私たちの望みの源、生きる希望そのものである。今朝も福音書により、その確かな出来事に目を留めたい。
1、主イエスが弟子たちと最後の晩餐の時を過ごされたのは、受難週の五日目、木曜日の夕方から夜のことである。多くの人々に教えを語った週の前半から一転、後半は静かな時を過ごそうとされた。四日目の水曜日は一日休まれたようであり、最後の十字架に向けて、静かに祈り、心備えをされたものと思われる。そして木曜日の夕方、過越しの食事の時、聖餐式を定めることの他、弟子たちにこそ多くの教えを語り、その夜遅く、オリーブ山に出かけ、ゲッセマネで祈られた。激しく動揺し、心騒ぐことを父なる神に告げつつ、最後には、「どうぞみこころのとおりになさってください」と祈り終え、立ち上がって、十字架への道を踏み出しておられた。(マタイ26:30、36-46)主イエスは、身代わりの死をはっきりと心に留め、その上でいっさいを引き受けておられた。ユダヤ人の議会で、そして総督ピラトの前で、不当な裁判が行われていた。(26:59-68、27:1-26) けれども、主イエスは、罪のない方として十字架で死ぬため、全てを耐え忍ばれた。どんなに嘲られても、また打たれても、そこから逃れることなく・・・。六日目の金曜日、夜明けから裁判に連れ出され、十字架刑が決まるや、たちまち兵士たちに引き渡されたのである。
2、ゴルゴダの丘に着くまで、イエスの代わりに、クレネ人シモンが十字架を無理やり負わされた。イエスの体力が消耗していたからである。十字架につけられてから三時間が過ぎ、更に三時間、苦しみと痛みの極みの中で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、悲痛な叫びを発しておられた。(27:33-46)罪にないお方が、罪ある者として、神に見捨てられる苦しみと痛みの中におられた。けれども最後は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と言って、息を引き取られた。その死は、神にも人にも見放された、痛ましくも、悲しい死であった。しかし、神に委ねて息を引き取っておられた。(27:50)弟子たちは逃げ去り、数人の女たちが遠くから眺めるだけで、亡骸の葬りを誰がするのか、はなはだ心もとない状況であった。そんな時、アリマタヤのヨセフが、亡骸の下げ渡しを願い出て許され、自分の墓、それも新しい墓に納めた。安息日が夕方から始まるので、大慌ての埋葬であったが、彼は弟子たちに代わって、この時にこそ自分の信仰を明らかにする時と、勇気を奮って行動していた。(57節以下)その時、ニコデモも、その埋葬を手伝っていた。ユダヤ人の指導者たちは、翌日、安息日であるにも拘らず、イエスのからだが盗まれるのを恐れて、墓の番をするようピラトに頼んだ。結局、墓は石で塞がれ、封印され、番兵がつけられ、誰も近づけないよう見張られた。
3、遠くからであったが、十字架の主イエスの死を見届け、墓への埋葬も見届けたのは、数人の女たちであった。彼女たちは、安息日が明けるのを心待ちしていた。慌ただしさの中での埋葬を、もう一度やり直したい、布を巻き直したい・・・、そんな思いであった。週の初めの日の明け方、墓を見に来た彼女たちは、大きな地震を感じ、墓石をころがした主の使いに会い、イエスのよみがえりを告げられた。「ここにはおられません。・・・よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。・・・」御使いは、空の墓を見せ、主はよみがえられたことを知らせたのである。(1節以下)驚きと戸惑いに包まれた彼女たちであった。けれども大喜びして、弟子たちに知らせに走ったのである。その途中、主は彼女たちに出会って、声をかけて下さった。やがて弟子たちにも喜びの知らせは届けられ、失意から驚き、戸惑いから喜びへと、弟子たちの皆が、イエスのよみがえりを信じる者に変えられて行った。多くの人が「復活など有り得ない・・・、死人のよみがえりを信じるなんて・・・」と、全く心を閉ざしたとしても、亡骸を埋葬した筈の墓が、空になったこと、その空の墓を前にして、反証できた人は、一人もいなかったのである。祭司長たちは大慌てをしていた。亡骸の盗難を言い触らし、「よみがえり」が広まらないようにと、お金を使って手を打っていたのである。もし、イエスのよみがえりがなかったのなら、ローマ総督ピラトの責任で、イエスの亡骸を探し出し、人前にそれを差し出すことなど、全く容易いことであった。空の墓、その事実は、イエスのよみがえりを如実に示す、確証そのものなのである。
<結び> 「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。」(コリント第一15:12-13)使徒パウロはこのように言います。更に「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」と。(15:17)「死者の復活」そして「キリストのよみがえり」は、今日も、確かに信じにくい事柄である。けれども、イエスが葬られた墓は、三日目の朝、空であった。そして、女たちは、よみがえった主にお会いし、弟子たちも主にお会いし、失意から喜びに、絶望から希望へと立ち上ったのである。
人を全く恐れの中に閉じ込める死は、主イエス・キリストによって、完全に打ち破られた。その復活の事実によって、キリストを信じる者を、新しいいのちに生きる者へと導き入れて下さるのである。キリストの十字架と復活を心から信じ、すなわち、主イエスが十字架で死なれたのは、私の罪の身代わりであることを信じ、死からよみがえられたのは、私たちに永遠のいのちを与えて下さるためであったと信じるなら、私たちの罪は赦され、神の国に入る人とされる。それこそが人間にとって、最高の幸せ、最高の喜びである。神との親しい交わりを喜ぶ者として造られた人間が、罪のゆえにその交わりに背を向け、ありとあらゆる悪に走り、罪と悲惨に取り巻かれていた所から救い出され、人間としての本当の喜びを見出すことができるからである。主イエスのよみがえりがあって、私たちは真の望みへと進ませていただくのである。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら。私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(Tコリント15:19-20)
今朝、この礼拝において、信仰告白式が導かれることを、一同で大喜びしたい。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われた主イエス・キリストを、心から信じる若い二人が導かれている。この二人に続く人が起こされることを願い、式に臨みたい。
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