先週より、主イエス・キリストの最後の一週間、受難週と復活の出来事に心を向けるため、マタイの福音書を開いている。受難週に語られた主イエスの教えには、ご自身の切なる思いが込められていることに気づきたいからである。あなたは、生ける神の前にどのように生きようとしているのか、また今どのように生きているのかと、主イエスは、私たちにも問い掛けておられる。今朝の聖書個所も、主は人々に、永遠のいのちに入る生き方と、永遠の刑罰に入る生き方の、どちらをあなたは生きようとしいるのか、よくよく考えるようにと迫っておられる。
1、主イエスの最後の一週間は、エルサレム入城から始まり、最初の三日間、宮に出入りしておられる。その三日間は、民の指導者たちとの論争の他、人々が群衆となって押し寄せる中で、次々と大切な教えを語っておられた。いずれも聞き流してよいことでなく、聞いた人は自分の答を出すように、神の前に正しく生きることを、はっきりさせなさいと、そのように教えておられた。弟子たちも、自分の生き方を問われていた。主イエスに最後まで従って歩み、確かに天の御国に入る人となるのか、その覚悟を問われていた。主イエスの教えは、最初の頃から一貫して、いのちの道を行くのか、それとも滅びの道を行くのか、そのことを常に問い続けていた。今や、もっと鮮明に二つの道のどちらを行くのか、全ての人に迫っておられた。二つに一つ、右か左かを問われると、たちまち逃げ出したい私たちである。けれども、決して逃げ出せないこと、逃げてはならないこととして主は語られた。仮に今は、逃れたとしても、最後の最後に、全ての人が、必ず神の前に立たされるからである。その厳粛な事実を、「羊と山羊」のたとえによって、いよいよ明らかにされた。これは、「最後の審判」の描写として知られる、大切な教えである。(31~33節)
2、「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」主イエスは、最後の時、ご自身が栄光の座に着き、王として、全ての国々の民を、「羊飼いが羊と山羊とを分けるようにより分け、羊をご自分の右に、山羊を左に置きます」と、言い切っておられる。右にいる者たちには、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と、羊たちを「正しい人たち」と祝福された。(34節)彼らが「正しい人」とされた理由について、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気したとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです」と言われた。(35~36節)ところが、彼らは、自分たちがしたことには、ほとんど気づいていなかった。王は答えた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(37~40節)無意識でする愛の業、これこそが、主イエスご自身に対してする愛の業となるのである。イエスに従う者は、神の愛をいただいた者として、その生き方において、必ずや実を結ぶ。けれども、目に見える行いが評価されるのではなく、確かな信仰が愛の業を産んでいることを、主が認めて下さるのである。
3、左にいる者たちには、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった」と、厳しい言葉を発せられた。彼らの反論は、「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか」であった。もっと、いろいろ、大きなことをしたではありませんかと、そう言いたげである。(マタイ7:22) そんな小さなことより、大きな業をしているではありませんか・・・とも・・・。王の答は「まことにおまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです」と、一層厳しいものであった。(41~45節)王によしとされる生き方、すなわち神を恐れ、主イエスを救い主と信じて生きる者の生き方は、神の愛に押し出されるようにして、愛の業を行う生き方である。神に愛されていることを知って、互いに愛し合って生きるのか、それとも自分中心に生きるのか、その生き方の差は、永遠の刑罰か、永遠のいのちなのか、究極の差となるというのである。主イエスのお心は、教えを聞いていた全ての人が、永遠のいのちに入る人であるようにと、涙しておられたに違いなかった。弟子たちを含めて、そこにいた人々は、果たして理解したのであろうか。
<結び> 「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(46節)主イエスの教えの締め括りは、やはり道は二つに一つである。滅びかいのちか、あなたはどちらを選び取るのかを、はっきり問い掛けておられる。受難週において、権威論争の後の「ふたりの息子」、「王子の結婚披露宴」、「畑の農夫と臼をひく女」、「花婿を出迎える十人の娘」、更には「タラントのたとえ」など、いずれも天の御国に入る幸いな人と、そうでない人がいることを、主は明らかにしておられる。「神の国に入る」「選ばれる」「残されます」「戸がしめられた」「役に立たぬしもべ」等々、明暗が浮き彫りにされ、そんなにも違いがあるのかと驚くばかりである。その極めつけが、「羊と山羊」である。けれども、主イエスがこのことを語っておられた。私たちは、その事実を見落としてはならない。主イエスは、人々が、神の前に心を悔いて、神に立ち返ることを願っておられた。神を信じ、神の前にも人の前にも、心を低くして生きる者となり、神の国に入ること、永遠のいのちに入る人となるよう、私たちにも語り掛けておられる。
私たちが主イエスを信じ、永遠のいのちに入る人されたなら、それに相応しく生きることを、大いに期待して下さることを覚えたい。すなわち、地上の日々の生き方が、必ずや変えられることを感謝したい。信仰が整えられ、愛の業が導かれるように祈りたい。どんなに小さくても、無意識に成す愛の業が導かれることを。もしそのようにして信仰の証しが導かれるなら、その時、私たちは、キリストの証し人として用いられるのである。最後の日には、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、主からの言葉を聞く者にならせていただきたいのである。
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