月が替わり、年度が替わるこの4月、今年は20日がイースター礼拝となる。キリストの十字架と復活の出来事を、特に覚えて過ごすよう導かれる季節を迎えた。ウェストミンスター小教理問答の学びは少し休んで、主イエス・キリストの最後の一週間、受難週と復活の事実に心を向けたい。地上での最後の時を間近にし、主は、心を込めて人々に語っておられた。その教えに耳を傾け、主ご自身のお心に触れたい。そして私たちの信仰が整えられ、今を生きる確かな知恵、また励ましと力をいただきたいのである。
1、主イエスの公の生涯は、およそ三年、長くて三年半位・・・。その間、各地を巡り、教えを語り、奇蹟を行い、ご自分が神であること、父なる神から遣わされた救い主、キリストであることを告げ、「わたしを信じ、神の国に入る幸いを得るように・・・」と、人々に迫っておられた。主イエスが福音を語り始める前、父なる神はバプテスマのヨハネを遣わし、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣べさせ、人々が神に立ち返る備えをさせておられた。そしてイエスご自身も、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と、人々が、神に立ち返るように福音を語られたのである。人が神に背を向け、自分の知恵と力を誇り、欲に駆られ、富を貪ることが、この社会を悪に走らせていたからである。いつの時代、どこの国でも、人間の根本問題は、人間自身の中にある罪である。そして、罪から来る悪である。人が心から、神の前に悔い改めることなしに、問題は解決しない。主イエスは、その根本的解決のため世に来られ、そのために教えを語っておられた。その教えは一貫していたが、受難週において、いよいよ明確に語っておられる。今朝の個所は、その第二日目、その日は民の指導者たちとの論争の中で、神の前に悔い改めること、心を入れ変えること、それを潔くするのは誰かを問うておられた。(28~30節)
2、このたとえが語られるまで、主イエスと祭司長たちは、権威を巡って論争していた。祭司長たちは、宮で人々に教えるのイエスを見とがめ、「何の権威によって・・・」と文句をつけた。これに対して主は、「ヨハネの権威は、天からのものか、人からのものか・・・」と尋ね返されたのである。彼らは、「わかりません」と答えていた。彼らは、この時、答を出すのを躊躇った。それで主は、自分も答えるのを止めると彼らを突き放し、代わりにたとえを語って、彼らに考えさせようとされた。祭司長たちの姿、一番肝心な事柄について、回答を棚上げする姿は、ほとんど全ての人に当てはまる。自分を賢いとし、知恵があり何でも知っているとする、現代人の姿そのものである。彼らは、目に見えないこと、神や信仰のことなどは、全く不確かで信用ならない・・・と主張する。科学で証明できること、理性で納得できること、それらこそが大事と胸を張る。ところが、本当は目に見えない大切なことがあると、心で認めながら、それを言い表すのを回避する。神の存在を認めるのは、どうしてもできない・・・とばかりに。主は、そのような人に向かって、よくよく考えてみなさいと、たとえを話しておられたのである。
3、「ある人にふたりの息子がいた。」「父」は神のことを指し、「子」は当時のユダヤの人々を指す。同時に、世の中に全ての人が、兄か弟の、どちらかに分かれることを暗示している。「ぶどう園」はイスラエルの民全体を指し、それは神の民としてのイスラエルのこと、神の国のこと、或いは教会のことを意味している。父は、二人の息子に、「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と、同じように願った。兄は、「行きます。お父さん」と快く答え、弟は、「行きたくありません」と答えた。ところが実際に、兄は行かず、弟は、「あとから悪かったと思って出かけて行った。」「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」イエスのこの問い掛けに、祭司長たちは、躊躇いなく「あとの者です」と答えている。自分のことでは回答を回避した彼らであったが、第三者を評価するの難しくなかった。正しい振る舞いは、口先の答でなく、実行そのものであると。彼らのその答を引き出した上で、心を入れ変える、その態度こそ尊いことであり、神は、人々が心の向きを変えること、罪を悔い改めて、神の国に入ること、神との交わりの中で生きることを願っておられるということを、主イエスは明らかにされたのである。(31~32節)当時、神の国から遠いとされていた取税人や遊女たちが、こぞって悔い改めに導かれていたのは、皮肉なことであった。また自分は神の国に近いと安心していた、民の指導者たちは、神が本当に願っておられることを分かろうとはしなかった。主は、それでも心を変えるつもりはないのかと、問うておられた。
<結び> 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」「神の国に入る人」は誰か、その答は明解である。祭司長たちが答えた「あとの者」、「取税人や遊女たち」である。彼らは、人々からの尊敬を得ていた者たちではなかった。当時の社会では、疎んじられ、人の道を外れた生活をしていた。その彼らがヨハネの教え、悔い改めへの招きに応えて歩み始め、今はイエスに従って歩み、その教えに耳を傾けていた。だから「あなたがたより先に神の国に入っているのです」と、主イエスは言われた。神の前に、あとになって心を悔いる人、あとになっても心を悔いることのない人、その二つに全ての人が分かれる。主イエスは、そのどちらになるのか、私たちにも問い掛けておられる。それは、主イエスの、切々たる問い掛けである。
十字架に向かう日々、人々に語られた。心を固くするのを止め、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と。よい返事をしながら、父の思いを退けた兄、初めは「いやです」と父に背きながら、最後には心悔いて、父の願ったとおりにした弟、私たちは、神に対して、どちらの生き方をするのか、改めて自分に問うてみたい。そして、私たちの信仰が明確なものとなるように祈りたい。神の国に入る人として、幸いな日々を歩ませていただきたいからである。まだ確信がなくても、心を悔いて、生き方を変えるのに、遅すぎることはない。心を変えて神を仰ぐ人、その人が「神の国に入る人」なのである。生かされている限り、神は、その人が神の元に立ち返るのを待っていて下さるからである。
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