礼拝説教要旨(2014.03.23) ウェストミンスター小教理問答<60,61,62>
永遠の安息を望み見て
(マタイ 12:1〜8)

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト20:8-10)神は、第四戒において、神礼拝のための一日を、安息日として聖別することを求めておられた。通常の生活とは違う一日として休むこと、それは神に心を向けるため、神と親しく交わる礼拝のために、安息日は定められた。では、この日をどのように聖別するのか、その問答が続く。問60「安息日は、どのように聖別すべきですか。」答「安息日は、次のようにして聖別すべきです。その日は終日きよく休むこと、他の日なら正当は世俗の職や娯楽さえやめること、すべての時間を公私の神礼拝を守るのに費やすこと、ただし、必要やむを得ない業とあわれみの業にとられる時間は別です。」かなり丁寧な指針を明らかにしている。

1、神が定めて下さったのは、人には仕事のための六日間があり、休みのための一日があることである。その一日は、神に心を向けるため、「これを聖なる日とせよ」と命じられたのである。その日の聖別のため、「終日きよく休む」には、「世俗の職や娯楽」を止めて、全時間を「公私の神礼拝」に費やし、もし仕事をするなら、「やむを得ない業とあわれみの業」に限られると、そのように小教理問答は答える。「聖別」という言葉は、「聖とする」「取り分ける」ことを意味している。他の六日とは区別する一日を、はっきりさせることが求められる。しかし、六日間は「俗」で、一日は「聖」であるという、「聖俗二元論」を勧めているのではない。全時間が神のものであり、七日が全て神のものであっても、日々の生活の中で、一日を「聖なる日」とすること、それが人にとってどれだけ力となるのか、そのことが中心である。その核心を覚えて「聖別」を考えなければ、たちまち、上辺だけの事柄に陥る。では、真実な形で、終日を神礼拝に費やすのは、果たしてどのようにすることであろうか。

2、問61「第四戒では、何が禁じられたいますか。」答「第四戒が禁じている事は、求められている義務を怠るか不注意に果たすこと、この日を、怠惰により・それ自体罪である事を犯すことにより・または私たちの世俗の職や娯楽を必要もなく思い語り行うことによって、汚すことです。」神礼拝を、「怠る」ことはもちろん、「不注意に果たすこと」も禁じられている。そして「怠惰」や「罪を犯すこと」、「世俗の職や娯楽を必要もなく思い語り行うこと」が禁じられている。ほとんど誰も、この戒めを守れないのは、明白である。それでも、神はそれを求めておられた。民は、不完全であり、愚かで、迷い易く、神の聖さからは隔たっていたが、それをご存知の上で、神はイスラエルの民をご自身の民とされた。そして、その民を神の聖さに叶う者とするため、戒めを明らかにしておられたのである。人々は心からこの戒めに従うことが求められ、現実に従い切れない事実を悟らされ、その度に罪のためのいけにえを捧げ、究極の捧げ物の必要を覚えさせられていた。神がおられ、神に従って人が歩むことを、神は求めておられた。戒めは、神が求める聖さの基準が高いことを、常に人に示していた。問62「第四戒に加えられている理由は、何ですか。」 答「第四戒に加えられている理由は、神が週の六日を私たち自身の職のために使わせてくださること、神が第七日には特別の所有権を主張されること、神御自身が模範を示されたこと、神が安息日を祝福しておられることです。」

3、戒めの真の意味を理解しても、それでも実際の守り方には、過ちが繰り返される。安息日に関して、主イエスとパリサイ人や律法学者たちとの間で繰り広げられた論争は、正しく核心に触れる事柄であった。安息日に「してもよいこと」と「してはならないこと」を取り決め、それによって、安息日を守っているか、守っていないかを判断していたからである。パリサイ人たちの考えでは、麦の穂を摘んで、それを食べることは、安息日にしてはならない労働であった。それでイエスに抗議した。しかし、イエスは、ダビデがしたこと、また祭司たちの規定を例に挙げ、律法に定められている事柄について、上辺だけ守ることの愚かさを指摘された。神が人に、律法を与えて下さったその意図を正しく理解すること、更には、律法が要求する儀式の完成者としてのご自分を認めることを、人々に求めておられた。何よりも神は、外面的な行為より、内面的な心を、いけにえよりもあわれみを好んでおられることを、主イエスは明言された。神に対して忠実に従う、その心を問うておられるのである。「人の子は安息日の主です」と語って、安息日を本当の意味で尊んでいるのかどうか、「わたしは人の心の内を見ている」と、そう主張されたのである。

<結び> 「安息日の聖別」の仕方は、結局のところ、一人一人が心の内でどのように決めるのか、何を選び、何を退けるのか、常に自分で考えて実行することに行き着く。人に決めてもらったこと、また周りの人がそのようにしているからでなく、神に従い、神を礼拝する私が、どのように戒めを守るかを考えて振る舞うこと、それが大事である。問答60と61は、その決断と行動の指針となる。そして、その指針は心を縛るものではなく、心からの感謝と喜びからの礼拝を導くものであるのか、その点を見失ってはならない。

 そのようにして、安息日を聖別する時、私たちは、天にある永遠の安息を望み見ることを導かれる。(コロサイ3:1-2)イエス・キリストを救い主と信じる信仰は、罪の赦しを与えてくれるものであって、天にある救いの完成を約束してくれる。この地上では、どんなに慰めが与えられても、それは一時的であり、揺れ動くものでしかない。安心を求め、休みや平安が与えられても、やがて心は乱れるのが常である。けれども、主の日毎に、安息日を迎え、礼拝をささげる度に、私たちは、天にある永遠の安息を望み見ることを許される。その確かさを知る幸い、また力を与えられる幸いを、私たちは毎週、経験させていただいている。この幸いは、何ものによっても妨げられてはならない。また妨げることはできない。それほどに尊いものである。それほどに尊く、幸いな礼拝は、天の安息に続くものであることを、改めて感謝したいものである。