礼拝説教要旨(2014.03.16) ウェストミンスター小教理問答<57,58,59>
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ
(出エジプト記 20:1〜11)

 神が人間に求めておられる道徳律法は、神が人間を造られた最初から、人間の心に記されていた。けれども、最初の人アダムにおいて堕落した人間は、心に記された道徳律法を見失い、それに正しく従うことはできなくなり、自分勝手に生きるばかりとなっている。これが人間の現実である。それ故、イスラエルの民に十戒が与えられたことは、心に記された道徳律法を、神が明文化して示しておられるという意味で、とても大切なことである。その前半部分は、人間が神に対して負うべき務めについて、すなわち神礼拝における事柄であって、その最後の第四戒は、安息日の聖別についての戒めである。問57「第四戒は、どれですか。」 答「第四戒はこれです。『安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』」

1、神による天と地の創造の御業に遡って、神ご自身が七日目を祝福され、「この日を聖であるとされた」こと(創世記2:3)、それは、造られた人間が神に心を向けるため、一日を取り分けるようにとの定めであったと告げる。私たちを含めて、恐らく全ての人が、時間は私たちのためにあると考えている。一週間の一日一日を、どのように過ごそうが、それは自分で決めてよいと、確信して止まない。けれども、第四戒は、時間は私たち人間のものでなく、神のものであり、一週間の七日は神のものであること、一日は必ず「安息日」として、他の日とは違った日、「聖なる日」とし、聖なる神に心を向けるために区別するよう命じている。神は、十戒を通して民の心に、神礼拝の尊さを教えようとされていた。全時間が神のものであり、七日が全てが神のものであっても、日々の生活の中で、一日を「聖なる日」とすることが、民にとってどれだけ力となるのか、よく分かっておられたからである。問58「第四戒では、何が求められていますか。」答「第四戒が求めている事は、神が御言葉において、はっきりと七日のうち丸一日を御自身のための聖安息日にすると指定されたとおりに、その定めの時を神に対してきよく守ることです。」

2、神が命じられた通りに、そして、神が願っておられるように民が従うこと、それが核心である。けれども、他の戒めと同様に、戒めを文字通りに守るのか、それとも、その本質に従うのか、旧約聖書の時代の人々は、繰り返し難題にぶつかっていた。先ずは「安息日」はいつなのか、週の七日目がそうなのか・・・。安息日に何をすべきで、何をしてはいけないのか、また何がしてもよいことなのか、課題は限りなくあった。民は、多くの試練を経験しながら、実際には上辺だけは守るという、そんな失敗を繰り返した。そして主イエスの到来によって、改めて十戒の本質が明らかにされ、安息日についても、形骸化した守り方から解き放たれるのである。(マタイ12:1-14、マルコ2:23-3:6、ルカ6:1-5)その決定的な解放は、主の復活によってもたらされた。問59「七日のうちのどの日を、神は週ごとの安息日と指定されましたか。」答「神は、世の初めからキリストの復活までは、週の第七日を週ごとの安息日と指定されました。そして、キリストの復活からは、週の第一日を世の終わりまで続けるように指定されました。これがキリスト教の安息日です。」十戒が授与されて以来、民は週の七日目を安息日として守り続けていた。厳格に、また注意深く歩んだ。けれども、厳格に守ろうとする余り、抜け道を設けることになっていた。そのために主イエスは、律法学者やパリサイ人たちと衝突したのである。

3、週の第一日、「これがキリスト教安息日です」と言われる。それは、主イエス・キリストが十字架の死の後、三日目、週の初めの日に復活されたことによる。復活の事実が、七日目の安息日からの一大転換を可能とした。弟子たちは最初、七日目の安息日を守りながら、毎日のように宮でキリストの復活を宣べ伝えていた。パウロが伝道する時には、安息日に会堂に集う人々に語り、その安息日毎の証しが、多くの実を結んでいた。そのようにして、教会はやがて、「週の初めの日」こそ、礼拝のための特別な日とし、十字架の死を記念して「パンを裂くために集まった」のである。(使徒20:7、コリント第一16:1-2)主イエスの十字架の死に接して、全く意気消沈していた弟子たちが、再び立ち上がることができたのは、一体何によったのか。復活がなければ、彼らがその証人として歩み始めることはなかった。また教会が、週の初めの日を安息日として守り始めるのは、有り得ないことであった。そのようにして、今日まで教会は、キリストの復活を記念する「週の初めの日」を、「主の日」と覚え、また「安息日」として聖別しているのである。

<結び> 「安息日」の聖別の仕方について、問答60以下に続くが、「安息日厳守」という考え方が、多くの教会に行き渡っていることに触れておきたい。十戒を道徳律法と理解するのは正しいとしても、律法を戒律と考え、その戒律を守るか守らないか、それによって祝福か呪いかの道筋を、短絡的に決めようとする傾向があるからである。この第四戒についても、「厳守」を巡って、確かに行き過ぎがあると思われる。主の日の礼拝を守るか守らないか、余りにも神経質になっていることはないだろうか。「主の日」を「聖日」と呼ぶ場合も同じであって、「聖日厳守」という言葉に、私たちは心を引き締められる。それは尊いことである。しかし、十戒の全ての戒めがそうであるように、私たちが神に従うのは、神の恵みとあわれみに心から感謝するからである。強いられてではなく、感謝と喜びから、自ら進んですることである。七日の内の一日を、神礼拝のために「聖別する」よう、神が命じておられるとしても、私たちは全く強いられてはいないことを、感謝をもって覚えたい。厳守するにも、遵守するにも、真心からこれに従うことが、この上なく大事なことである。何かの教えや戒めに縛られてではなく、自由にされているからこそ、神を喜び、礼拝に連なり、安息日を覚えて聖なる日とするのである。※実際には、絶えず優先順位を考えながら・・・となる。

 神が、七日の内の一日を休みとするよう定めて下さっている事実、それは真に幸いなことである。その日に神の前に出て、心を静めることができる幸い、それは天の御国での永遠の安息を、この地上で味わう幸いである。キリストが復活されたからこそ、私たちは、確かに復活の希望に生きることができるのである。主の日に集えるこの幸いを、これからも一人でも多くの方と共に味わい、永遠のいのちの望みを証しし続けることを導かれたい。