問55「第三戒では、何が禁じられていますか。」答「第三戒が禁じている事は、神が御自身を知らせるのに用いておられるどんなものをも、汚したり濫用するすべてのことです。」第三戒は、神の御名の誤用を禁じている。その誤用を見抜く方、それは、生きておられる真の神、主だけである。問56「第三戒に加えられている理由は、何ですか。」答「第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。」人が、自分の心の内を周りの人々には隠せても、神はそれをご存知だからである。神礼拝とは、それ程に尊く、神聖なことである。私たち人間は、全く不完全であり、時に不遜であるが、それでも、この第三戒を心に刻み、神の御心にかなう神礼拝をささげるように、神ご自身から期待されているのである。
1、神は、ご自分が贖った民だからこそ、イスラエルの民に、真心からの礼拝をささるよう命じておられた。どんなに惑わすものが多くても、目に見える像が慕わしくても、真の神だけを心の底から慕って、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、モーセを通して語っておられた。(申命記6:5)一度罪に堕ちた人間が、どれだけ愚かで、また罪深く、容易く道を逸れることを、神ご自身がよく知っておられたからである。それで十戒を与え、服従の指針を明示しておられた。民を抑えつけるためではなく、贖われた民が、神と共に歩む幸いを生きるためである。それでも民は、何度も道を逸れるのであった。その弱さをご存知の神は、この第三戒に、「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」と、厳しい言葉を加えておられる。(出エジプト記20:7)民が、真実に主を恐れることを学ぶよう、神の心遣いが込められていたのである。
2、神が、神を礼拝する者の心を見ておられ、その礼拝が真実か、それとも偽りかを見抜かれるとは、とても重いことである。主イエスの教えの鋭さに、私たちは心を刺される思いである。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21) 主イエスは、多くの人が「御名」を誤用し、自分勝手に神を呼び、自分を誇るかのように預言し、悪霊を追い出し、奇蹟さえも行っていた事実を責めておられた。そのような事実は、イスラエルの民の歴史において繰り返され、その度に神は、預言者を遣わしておられた。マラキ書も、バビロン捕囚から帰還した時代、形式的な礼拝に堕ちている民に、神の怒りと警告が語られていた。実際には民を導く者たち、祭司たちが形式的な礼拝に明け暮れていたのである。預言者を通しての神の言葉は、必ず、裁きの時が来る、との警告であった。(1節)同時に、「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。ーー万軍の主は仰せられるーー」(2〜3節)と、神の救いの到来も告げられていた。
3、預言者を通しての神からのメッセージは、悔い改めへの招きであり、十戒を授けられた時を思い出すようにと、神に服従することの尊さを教えるものである。(4〜6節)特別な預言者を遣わすこと、その預言者は悔い改めへの使者であること、と告げている。その「エリヤ」とは、「バプテスマのヨハネ」のことであると、主イエスが語っておられる。(マタイ11:14)ヨハネは救い主キリストの先駆者として、人々に神に立ち返るようにと、悔い改めを迫っていた。私たちも今日、聞くべきことは、悔い改めへの招きのメッセージである。今日だけでなく、地上を歩む全ての日々において、神は私たちの生きる全てを知っておられるからである。第三戒は、特に礼拝における御名の誤用に関しているが、礼拝のみならず、御名の誤用は、私たちの生活のあらゆることに及ぶ。その全てにおいて神が見ておられ、心の内をご存知であるとすれば、私たちは全く逃れようのない位、神の前にさらけ出されているのである。果たして私たちはどうするのだろうか。どうすれば良いのか・・・。
<結び> 「この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです」と言われているのは、神は、必ず正しい裁きを下す方であること、裁き主であると告げることである。その裁き主を恐ろしい方と思うのか、それとも心優しい方と思うのか、その違いは、十戒の前文を忘れるか、しっかり覚えているかにある。その上で、戒めを完全には守り得ない自分に気づくか否かが、殊の外大事となる。守れない自分に気づく時、全面的に神に従うしか道のないことに気づかせられる。そのようにして、私たちは、主イエス・キリストの十字架の前に進み出るように導かれる。神は裁き主であられると同時に、その裁きから救われる道を備えて下さる、愛とあわれみに富むお方なのである。
主イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われた時、戒めを守り得ない自分を知って、それで心を痛めている人こそが招かれていたのである。また、本当に恐れるべきは誰であるかを知り、(マタイ10:28)神の裁きに耐え得ない自分を悟って、真の救い、本当の平安への道を歩み出すよう、神は招いて下さっているのである。第三戒に添えられた理由、それは実に、救いの恵み、また喜びを決して見失わないようにとの、あわれみに満ちた約束であることを覚えたい。そして、常に悔い改めの心をもって、神に従うことができるよう祈りを厚くしたい。
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