小教理問答は、十戒の第三戒へと進む。問53「第三戒は、どれですか。」答「第三戒はこれです。『あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう』。」第一戒は、ただひとりの、生ける真の神のみを信じ、この方だけを礼拝することを命じている。第二戒は、目には見えない、霊である神を礼拝するのに、刻んだ像、偶像は全く必要ではないと、神礼拝の仕方に触れる戒めである。いずれも、神を愛すること、神にのみ仕えることを命じる戒めで、それらは神礼拝を通して果たされることである。そして第三戒も、神礼拝の在り方に関わる大切な戒めである。「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。・・・」(7節)
1、問54「第三戒では、何が求められていますか。答「第三戒が求めている事は、神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。」聖書において、神がご自身を人の前に啓示される時、「名前」を名のっておられる。出エジプト記で、燃える柴の中から、神がモーセに語られた時、神の名を尋ねたモーセに対して、「わたしは、『わたしはある』という者である」と、神は答えておられる。(3:1以下)また神は、モーセに、「『イスラエル人に言え。あなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」と告げておられる。(3:14-15)新改訳聖書で、太字で記された「主」、これがモーセに告げられた「名前」であった。それは、「わたしはある」が基になる四文字で表される名であり、「エホバ」「ヤーウェ」、或いは「ヤハウェ」と呼ばれる名前である。(※読み方が定まらないのは、聖書朗読の時、第三戒を文字通り守ったためとされている。)
2、「名前」は、人間の場合でも分かるように、他の存在と明確に区別するための特別なものであり、正しく「名は体を表す」ものである。「主の名」また「主の御名」は、神がどのようなお方かを、神ご自身が人に啓示される特別なもの、人が神を礼拝する時、特に心の内で覚えるべき事柄、そのものなのである。だから「みだりに唱えてはならない」と、戒めが与えられた。第二戒は、神礼拝において、目に見える形の上での注意事項であり、第三戒は、礼拝する者の心の内側、目には見えない部分における細心の注意事項と、そのように理解できる。真の神が「わたしはある」と仰せになり、民がその神に向かって「主よ」と呼ぶなら、その時、神は全知にして全能であられ、無限にして永遠不変であり、全てを治めておられる方と、民が認めて呼んでいるのか、そのような神理解が問われることになる。ただむやみに「主よ、主よ」と呼ぶだけなら、それは神を軽んじることになり、はっきり「罰せずにはおかない」と警告されている。最初に十戒を与えられた民はもちろんのこと、そして今日の私たちも、神を神として仰いでいるのか、「主よ」とその「御名」を呼ぶなら、心から神の前に出ているのか、神を信じ、心からの感謝をもって従っているのか、常に自問自答することが大事となるのである。
3、「主の御名」或いは「主の名」と言う時、太字で表される「主」の名だけと限られてはいない。問答54は、そのことに触れている。「神の御名、称号、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。」神の名について、「主」の他に、「全能の神」としてアブラハムに語っておられ(創世記17:1)、また「聖である」こと(レビ19:2)、「正義と公正」を求める方であること(創世記18:19,26)など、神の属性について、聖書は多岐に渡って明らかにしている。愛とあわれみに富む方であり、真実なお方である(出エジプト記34:5-7)。その他、天と地を造られた方、王であり、裁きを下す方であることも明らかにされている。その名のみならず、称号や属性、更には規定を示され、御言葉をもって語り、大いなる御業を成し遂げ、ご自身を明らかにされている。それら一つ一つを通して、私たちは、なお深く神を知り、いよいよ神を喜ぶ者として礼拝をささげるよう招かれているのである。神を知り、神の御前にいよいよ頭を垂れること、そのことを神は望んでおられるのである。
<結び> 神を神として崇める礼拝ささげているのか、それとも神を都合よく呼び出し、私たち人間の助けとなる神としてのみ、「主の御名」を唱えているなら、それは「みだりに唱える」ことになる。そのような礼拝や祈りは、神礼拝のようであっても、その実、自分の満足を追求している、偽りの神礼拝に他ならない。そのことについては、問答55、56に続く事柄であるが、私たちは今一度、主イエスの教えに目を留め、心の耳を澄ましたい。
イエスは言われた。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)「主の名」を使って事を成していても、全く的はずれなことが、それこそ数限りなくあると警告されている。生ける真の神は、礼拝する者の心の内を見ておられ、知っておられる。主イエス・キリストを心から信じることが、どうしても必要である。神に背を向けているという罪、その罪から生じるあらゆる悪に、私たちは染まっているからである。罪人の救い主としてのキリストを信じ、この方に拠り頼んで神の前に立つこと、キリストにあって、神の前にひれ伏す礼拝を、感謝と喜びをもってささげ続けることが求められているのである。
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