礼拝説教要旨(2014.02.23) ウェストミンスター小教理問答<51,52>
主権者であられる神
(申命記 4:7〜24)

 十戒の第二戒、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・・」は、人の目には見えない神、霊であるまことの神を礼拝するのに、目に見える偶像は、全く必要ではないと教えるものである。刻んだ像を使って礼拝するなら、神を辱め、神の栄光を汚すことになる。小教理問答は、その念押しが続く。問51「第二戒では、何が禁じられていますか。」答「第二戒が禁じている事は、像による神礼拝、または神の御言葉に指定されていないあらゆる他の方法による神礼拝です。」そして、問52「第二戒に加えられている理由は、何ですか。」答「第二戒に加えられている理由は、神が私たちに君臨する主権者であられること、神が私たちの所有者であられること、神が御自身への礼拝に熱心をもておられることです。」(出エジプト20:4-6)

1、「像による神礼拝」は、最初に神が十戒を民に告げられてから間もない時、民が目に見える神の形を求め、金の子牛を造って礼拝した程に、それは強烈な誘惑である。(出エジプト32:1-6)それ故に、およそ40年後、いよいよカナン入国が近づいた時、神はもう一度十戒を覚えさせ、民を導こうとされた。申命記の内容は、その頃のことである。十戒は5章6節以下に記されているが、4章では、シナイ山で、民が神の前に立った時のことを回想している。イスラエルを救った方、主だけがまことの神であるとの強調と、民が神の前に立った時、民は主の声は聞いたが、その姿は見なかったことの確認が目立つ。まことの神、主は、目には見えなくても、いつも民の近くにおられ、共におられる方である。この神に守られる民は、一番幸いな国民であることを、一同で再確認しようとしていた。(7〜8節)同時に、その幸いを揺るがすのは、目に見えない神を、目に見える形で礼拝しようとする落とし穴である・・・と警告する。(9節以下)

2、神は、民が神の御前に立つことを喜んでおられた。御前で、神の言葉を民が聞くことを喜ばれ、その言葉に聞き従うことを願っておられた。(10〜14節)これが神礼拝の原型、原点である。その時、「あなたがたは何の姿も見なかったからである」と言われるているように、神が語られる「ことばの声は聞いたが、御姿は見なかった。」(12、15節)それ故に、「堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。・・・」と警告されている。(16〜19節)神は霊であられるので、だから目には見えない方、この神の前に出て、神の言葉を聞くこと、これが礼拝の中心、全てであり、それ以外のことはしないこと、そうしないなら、たちまち堕落すると、強い警告が発せられていた。モーセ自身は、自分が失敗したことを思い出していた。神の言葉への信頼と服従こそ尊いことを、思い返すのである。(20〜22節、民数記20:2-12) 小教理問答が、「像による神礼拝」、また「神の御言葉に指定されていない他の方法による神礼拝」という時、ローマ・カトリック教会による聖像や聖画が、その具体的なものであった。けれども、プロテスタントの教会であっても、真実な神礼拝は、いつも大いに心すべき事柄なのである。

3、真実な神礼拝をささげるために、私たちが心すべきこと、それは、神が私たちにとっての「主権者であられること」、私たちの「所有者であられること」、そして「神が御自身への礼拝に熱心を持っておられること」を、はっきり覚えることである。生けるまことの神は、私たちが、神の言葉に聞き従い、神を神として礼拝することを、強く願っておられる。神は「主権者」として、私たちに服従を求めておられる。その神は、背く者を裁く、ただ冷たい方ではなく、民を奴隷の家から救い出しで下さった方、恵みとあわれみに満ちた神、民を決して見捨てなかったお方である。(31節)イスラエルの民も、そして今日の私たちも、神を主権者として敬うこと、神の民とされている幸いを認めること、すなわち所有者である神に守られている事実を知ることが大事となる。私たちが神の前に出て、御言葉を聞くことを第一とする礼拝を、神が望んでおられることを忘れてはならない。「・・・あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、・・・わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」とは、神がご自身の民を、熱情をもって愛し、民の愛と服従を熱望していることを言い表わす言葉なのである。(出エジプト20:5-6)

<結び> 私たちは今朝、神が「主権者であられること」を、改めて心に刻みたい。もちろん神が私たちの「所有者であられること」も、そして「神が御自身への礼拝に熱心をもっておられること」も覚えたい。けれども、何よりも「主権者」としての神を恐れること、敬うこと、この方に従うことを明確にしたい。(詩篇95:1-6)私たちが信じる神は、愛に富む方、あわれみに満ちておられる方である。私たちがどこに居ても、どんな状況に置かれても、決して私たちを見放すことなく、見捨てることはなさらないお方である。「まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。」(7節)この主権者であられる神が、御子イエス・キリストを遣わし、十字架で罪の代価を払って、私たちに罪の赦しの道を備えて下さったのである。

 キリストを信じ、父なる神の御前で、聖霊に導かれてひれ伏す礼拝をささげる時、そこに私たちの幸いがある。私たちが大事にすることは、神の言葉に聞き従うことを喜ぶ礼拝である。主の日毎に、主権者であられる神に礼拝をささげ、そして日々の歩みが導かれることを願って、天の御国を目指す者とならせていただきたい。御国の民とされる希望を持つ者は、究極の救いの完成を信じる者であり、この世でいかなる苦難や艱難にあっても、決して失望することなく歩ませていただけるからである。