十戒の第一戒は、まことの神はただひとり、その神を知って、この方にのみ礼拝をささげること求めている。民は、エジプトの奴隷の家から救い出された感謝を忘れず、神に礼拝をささげることが求められていた。そして第二戒では、神礼拝について、明確な指針が示される。問49「第二戒は、どれですか。」答「第二戒はこれです。『あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう』。」
1、人の目には見えない、霊であるまことの神を礼拝するのに、何か目に見えるものを持ち出すこと、そんな愚かな過ちを犯さないよう、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」と、神が命じておられる。(4節)偶像礼拝というと、他の異教のすることと考えるのが通常である。しかし、偶像礼拝は他宗教のものと、決めつけてはならない。神は、イスラエルの民に命じておられた。神によって救いの恵みに与った人々に、「自分のために、偶像を造ってはならない」と語られた。この第二戒を、第一戒の一部とする考え方がある。まことの神のみを礼拝することを、偶像の神々を礼拝することとは区別しようと考えるからである。けれども、正しい神礼拝を教えるため、霊である神を礼拝するのに、刻んだ像は不必要であり、それに仕えることはいらないと、神は民に教えておられたのである。(5〜6節)
2、そもそも人が木や石を刻んで像を造ったり、金や銀で像を造ったりしても、必ずしも、その像を神と思うわけでもない。問いただすと、木で造った像は像、神に至るきっかけ・・・と、そんな答えも返ってくる。もっと偉大な神々しい存在を信じる・・・とも。最初の人アダムにおいて、神に背いた人間の罪は、常に自分の考えを第一として、自ら神に近づこうとし、また自分の役に立つ神を作り出すのを当然としている。救いに与った筈の神の民であっても、目に見えない神を礼拝し、この神にのみ仕えるのは、決して容易いことではなかった。だから神は、はっきりと命じられたのである。ところが、それでも民はすぐ後で、モーセがシナイ山から降りて来るのに手間取っていた時、アロンに目に見える像を求めた。アロンは金を集め、鋳物の子牛を造って、これを礼拝させてしまった。「主への祭り」と言いつつ、誤った仕方で礼拝をささげたのである。(出エジプト32:1-8)それは、十戒を示された後、余り時間が経っていない時のことであり、神の激しい怒りを招くことになった。(32:35)
3、まことの神を礼拝するに当たり、正しく、また真実な礼拝をささげるために、民は充分な心配りが求められていたのである。自分の考えで良かれと思うこと、そのことにどんなに心が引かれても、目には見えない、霊なる神を礼拝するのに、刻んだ像、偶像は必要のないものである。万物の創造者であられる神を、被造物の形にすることは、栄光ある神を辱めることである。栄光を損ない、神を悲しませるばかりとなる。神の民こそ、真実な礼拝をささげるよう細心の注意が必要である。問50「第二戒では、何が求められていますか。」答「第二戒が求めている事は、神が御言葉のうちに指定されたとおりの宗教的礼拝と規定のすべてを、受けいれ、実行し、純正完全に保つことです。」真の神が霊なる方であるので、その神を礼拝するのに、形ある像は要らない。神の前に人が立つにも、ひれ伏すにも、神が御言葉をもって示して下さることに従うことが第一である。イスラエルの民は、出エジプト以降、折に触れて礼拝の規定を教えられ、それらはレビ記に集約され、定められた方法で礼拝をささげるよう導かれていた。その規定の全てが、十字架のキリストを指し示すものであった。キリストの十字架の御業こそ、神の民の救いの拠り所なのである。
<結び> 私たちが今日、神礼拝に関して覚えるべき第一のことは、何であろう。問50に対する答は、小教理問答が作られた頃のローマカトリック教会の問題が、その背景にあったと思われる。礼拝が、必ずしも聖書の御言葉に基づかず、徒に華美に走り、御言葉が命じていない礼典を行っていたからである。プロテスタント教会は、「聖書のみ」を掲げ、御言葉の説き明かしと、洗礼と聖餐の礼典を、礼拝の中心とすることを重んじたのである。これに賛美と祈りを加え、それも聖霊に導かれるものこそを尊び、人の心を感情的に鼓舞するたぐいものは、極力避けるように心掛けていた。それでも、長い時間の経過の内には、様々な変化があり、教会の歴史において、神礼拝の仕方、様式は実に多様な姿を見せることとなっている。それ故にこそ、神は霊であられること、そして目には見えないお方であるから、「霊とまことによって礼拝しなければなりません」と言われた、主イエスの言葉をしっかりと覚えたい。自分のために、良かれと思う誘惑は、実に多種多様だからである。(ヨハネ4:24)
私たちは教会の外にある、異教の偶像礼拝を徒に責めるのではなく、自分の内に潜む偶像に注意すべきなのである。刻んだ像を拝んではいないからと安心しながら、まことの神以外に心を奪われているものはないか、そのことが問われる。キリストが十字架で身代わりとなって下さったこと、この確かな救いをないがしろにすることのない歩みを、聖霊なる神ご自身が私たちに導いて下さるようにと祈りたい。私たちは、やはり主の日毎の礼拝を喜び、ここに集い、救いに導かれる人が増し加えられることを願い、主を証しし続けたいのである。
|
|