十戒の第一戒は、まことの神はただひとりであり、その神を知り、この方にのみ礼拝をささげること求めるものである。モーセに率いられたイスラエルの民は、生きて働いておられるまことの神によって、エジプトの奴隷の家から救い出された者として、神に礼拝をささげることが求められていた。今日の私たちは、キリストの十字架の身代わりによって罪を赦され、滅びからいのちへと救われた者として、まことの神にのみ礼拝をささげるよう求められている。そうする時、神の栄光を現す歩みが、確かに導かれるのである。問答は、第一戒が何を禁じているかに続く。問47「第一戒では、何が禁じられていますか。」答「第一戒が禁じている事は、まことの神を否定するか、神また私たちの神として礼拝せず栄光をあらわさないこと、神だけにふさわしい礼拝と栄光を他の何ものにでもささげることです。」
1、まことの神にだけ礼拝をささげ、他の何ものをも神としてはならない、という戒めは、「神はいない」とすることが、根本的な誤りであることを意味している。まことの神を否定する限り、その神に礼拝をささげることはなく、神の栄光をあらわすことから遠ざかるからである。その行き着くところは、神以外のものに礼拝と栄光をささげることとなり、知ってか知らずか、まことの神を悲しませることになる。実際に人類の歴史は、ありとあらゆる偽りの神々を礼拝する、偶像礼拝に満ち溢れている。まことの神は、その事実に心を痛め、神の民イスラエルを選び、また救い出すことにより、真実な神礼拝を教え、受け継がせようとされたのである。だからこそ、十戒を示して、神に仕える道をはっきり教えようとしておられた。どんなに惑わすことが迫っても、「神はいない」などと言うことなく、また神ならぬものに心を奪われることのないように・・・と。(出エジプト20:23、詩篇14:1)
2、神がこの戒めを告げられる時、民が心すべき言葉を添えておられた。問48「第一戒の『わたしのほか(面前)に』という言葉で、私たちは何を教えられていますか。」答「第一戒の『わたしのほか(面前)に』という言葉が私たちに教える事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです。」神は、「わたしの目の届くところで、決して間違いを犯すことのないように」と、クギを刺しておられた。また、「わたしの目の届かないところはない」と、言い切っておられたのである。まことの神は、全てのことを見ておられる。民が心に思い測ることはもちろん、民が成すことの全てを、神は見ておられるのである。万事を見ておられる神は、バビロンの地にいた預言者エゼキエルに、幻を見させられた。神が見ておられた民の罪の愚かさについて、「・・・『人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。』・・・」と。神は彼に幻を見させ、民の偶像礼拝の罪を暴き、罪に対する裁きを宣告させておられたのである。(5節以下)
3、「わたしは、全てを見て、知っている。民の罪の甚だしさを見よ・・・」と、神は預言者に告げておられた。人がどんなに心鈍いまま、自分勝手な道を突き進もうと、「わたしの目の前から、隠れることはできない。必ず報いを受けよ」とばかり・・・。(9〜10節、12〜15節)ただひとりのまことの神を神とし、この神にだけ礼拝をささげ、そのようにして神の栄光をあらわすことを、第一戒は求めていた。けれども民は、その道を離れ、偶像礼拝に惑わされていた。「・・・彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。・・・『・・・彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。・・・だから、わたしも憤って事を行う。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。』」(16〜18節)まことの神は、ご自身の民が、自分勝手に偶像に走り、神ならぬものを神として礼拝するのを、悲しみと痛みをもって見ておられたのである。そして、その罪を見過ごすことはなさらず、裁きを下すことを宣告しておられた。私たちは、神がその裁きを、うやむやになさることのないことを覚えなければならない。(ヘブル4:12-13)
<結び> 私たち人間は、神の目の前に、常に明らかな良心をもって立つことができるのか、そのことを大事にして生きることを求められている。神が私たちの目には見えないお方であるからか、人の目を意識し、また気にしながら生きるのが、私たちの日常生活の特徴である。特に日本の社会は、人にどのように見られているのか、とても気になる社会である。そのため、まことの神を信じて歩む信仰生活において、時として神を恐れるより、人を恐れてしまうことがある。天と地を造られた神、まことの神はただひとりと信じていながら、その信仰を貫くのを躊躇う、そのような日本の教会の歴史があった。かつて多くの教会が、神社参拝を巡って、激しく揺れたのであった。
私たちはその事実を、いささかも割り引いてはならない。また同じ過ちを犯してはならない。だからこそ、第一戒を心に刻み、イエス・キリストを遣わし、この方によって罪を赦して下さる、生けるまことの神だけを信じる信仰によって生き抜くことを、はっきりと導かれたいのである。けれども、私たちは、自分の決心や、自分の努力によって、この信仰を守り抜けるとは思えない。神がキリストにあって私たちを導き、力づけ、共に歩んで下さることによって、この信仰に生きることができるのである。感謝をもって、神と共に歩ませていただこうではないか。
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