礼拝説教要旨(2014.02.02) ウェストミンスター小教理問答<45,46>
まことの神は ただひとり!
(出エジプト 20:1〜3)

 問答45より、十戒の一つ一つの戒めについての問、そして答が続く。「第一戒は、どれですか。」答「第一戒はこれです。『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。』」問46「第一戒では、何が求められていますか。」答「第一戒が私たちに求めている事は、神を唯一のまことの神また私たちの神として知り、認めること、またそれにふさわしく礼拝し、神の栄光をあらわすことです。」ただひとりの神がおられることを知り、その方を認め、その神に相応しく礼拝をささげること、それが神を信じる者の務めであることを明言する。人間によって礼拝されるべき方、まことの神はただひとり、それは、イスラエルの民をエジプトから連れ出した神、救いを与えた神、確かに生きて働く神であって、他にはいないということである。

1、聖書は一貫して、ただひとりの生けるまことの神がおられることを告げている。「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1) これが聖書の冒頭の言葉である。その神が人間をお造りになり、この地を治める務めを人間に託された。初めの人間、アダムとエバは、神との親しい交わりの中で幸いな日々を送っていた。けれども、やがて神の戒めに背き、神と並び立つことを選び取った。それこそが罪であり、その堕落により罪が全人類に及んだ、重大な出来事であった。その時以来、人間は神を神として崇めることから離れ、神ならぬものを神とする道を、ひたすら突き進むようになったのである。その事実は、「どんな宗教であれ、神を求めて礼拝するのは尊い。結局は、同じ神を礼拝しているのだから・・・」という主張となって表れている。「結局のところ、ひとりの神に行き着く」とまで言われるが、果たして「そうなのか・・・?」を問わなければならない。第一戒は、「そうではない!」こと、神は唯一であり、天と地を創造した「わたし」、あなたを救った「このわたしだけ!」と、神ご自身が言われることである。

2、「人間を造った神」と「人間が造った神」の違いを、これまで幾度も考えたことがある。「を」と「が」の一文字の違いが、大きな意味の違いを言い表している。出発は、神が人間を造られたのであった。ところが、堕落して神に背いたことによって、人間は、人間に仕える「神々」を造り出すようになった。実に都合よく、次から次へと神を造り出し、その神々に頼り、まことの神への思いは、どこかへと覆い隠している。人類の歴史において、いつの時代、どこの国にあっても、木や石、また銀や金によって像を刻み、これを神として礼拝する、そのような偶像礼拝が数限りなく存在している。この日本には「八百万の神がいる・・・」と。しかし、神ならぬ神々は、刻んだ像に限らない。人が心の中で思い描く「神々」、目には見えずとも、想像力による「神々」も、計り知れない数に達するに違いない。モーセに率いられた民が、やがて導き入れられるカナンの地に、その当時、おびただしい異教がはびこっていた。偽りの神々の力は驚くほど強く、たちまち取り込まれる恐れがあった。だからこそ、神礼拝の根本が、先ず説かれていたのである。

3、ただひとりのまことの神を神とし、その神を心から敬い、礼拝し、この神にだけ礼拝をささげること、そうすることによって神の栄光をあらわすこと、それがこの第一戒の求めることである。そのためには、神がどのようなお方で、何をなさったか、人間に何を望んでおられるか、何を喜ばれるのか、神ご自身について、人間の側がよく知っていることが大切となる。モーセの時代においては、何よりも、民をエジプトの奴隷の家から連れ出して下さったこと、その救いの御業を覚えているかどうか、それが肝心であった。そこに至る民の歴史も大事であった。更に遡って、天地創造から始めて、人間の堕落やその後に続く歴史、そしてアブラハムの選びから出エジプトに至る歩み、それら全てを心に留めながら、一切を支配しておられる神を恐れ、神に仕えることを、生けるまことの神は求めておられた。今日の私たちは、聖書を通して、まことの神を知り、またより深く神を知って、神に礼拝をささげることが求められている。自分勝手に神を知るのでなく、また勝手に神の概念を作り上げたりするのではなく、聖書を通し、聖書が語る神により近づき、生ける神が私たちに教えて下さる通りに神を礼拝すること、そのことが大切となる。(ローマ12:1-2)

<結び> 私たちは、週の初めの日に、主イエス・キリストの復活を記念して、父なる神の前に集い、公に礼拝をささげ続けている。世界中のキリスト教会が、そのようにして今日まで歩んで来たのである。最初の人アダムの罪が、全人類に及んでいることを認め、自分もまた神に背く罪人の一人であることを知って、十字架のキリストを救い主と信じた者が、その救いを心から感謝して、神の前に礼拝をささげている。公の礼拝は週に一度であるが、神礼拝という意味では、キリストを信じる者にとって、全生活が神礼拝であることを忘れることはできない。いつ、どこにいても、ただひとりのまことの神を信じる者として、神と共に歩むこと、常に神の栄光を現して生きることが、殊の外に大事となる。神がおられ、その神の御手の中で、私たちは生かされているのである。神を恐れ敬い、神が共におられることを喜ぶ者として、この地上の日々を歩んでいるのか、そのことを心に問われながら、今週も、またこの月も歩ませていただきたい。私たちのささやかな歩みも、神の栄光を現す大きな証しとなることを信じ、前進させていただきたい。

 ※神を恐れて生きる者の証しが、どれだけ確かな証しとなるのか、その尊さを心に刻みたいものである。