礼拝説教要旨(2014.01.26) ウェストミンスター小教理問答<43,44>
十戒の序言
 =わたしはあなたの神、主である=
(出エジプト 20:1〜17)

 問42の答は、明解であった。「十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。」この十戒の要約の仕方は、主イエスがはっきりと語られたものである。「律法と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と。十戒は、モーセの時代にイスラエルの民に与えられ、人が神に従う道筋を明らかにしている。神に背いて堕落した人間のため、記された文字を通して、善悪の基準を明らかに示すものである。けれども、これを守るなら祝福する・・・という性質のものでなく、あなたがたは、すでに祝福に与っている、だから進んでこれに従いなさい・・・と、神は民に命じておられた。十戒の序言が語るのは、そのことである。問43「十戒の序言は、何ですか。」答「十戒の序言は、次の言葉にあります。『わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。』」

1、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(2節)十戒を道徳律法の要約と理解する上で、また大切な戒めと心に刻むためにも、この序言が語ることを見落としてはならない。それは、聖書を理解する大前提であり、私たちの信仰の根幹である。神がおられ、そして、人間がいる事実である。この十戒を与えるのは、「わたし、あなたの神、主である」こと、その「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」と、神が民に何をしたかを告げている。エジプトの国で、長年に渡ってイスラエルの民は苦役にあえぎ、神に助けを呼び求めていた。神はその祈りを聞き入れ、民はついにモーセを先頭にして、その苦しみから解き放たれたのである。その解放を、また救いを与えた「わたし」が、「あなた」に「十戒」を与え、「道徳律法」を明らかにすると、宣言しておられた。民は、救いに与った者たちとして、これに聞き従うことが求められていた。これらの戒めを守るなら、あなたを救う・・・とか、あなたを祝福する・・・というのではない。あなたはもう救い出された、だからその祝福の内を歩みなさい・・・と言われていたのである。

2、問44「十戒の序言は、私たちに何を教えていますか。」答「十戒の序言が私たちに教えている事は、神が主、また私たちの神でもあがない主でもあられるので、私たちはそのすべての戒めを守る義務がある、ということです。」神は、主権者として民に接しておられた。生きて働く永遠不変の神、「主」であることを明言し、イスラエルの民をエジプトから救い出した神、「あがない主」であることを告げていた。神は、民を愛するからこそ、救いの手を差し伸べられたのである。全知にして全能なる神が、民を愛して救いを与え、民を導いておられた。「わたしは、・・・あなたの神、主である」との言葉には、神の民に対する思いが込められ、民は、神の大きな愛に触れて、どのように応答するのか、心から聞き従うことが求められていた。「私たちはそのすべての戒めを守る義務がある」と聞くと、私たち人間の心に、「守る義務」という言葉がのしかかる。しかも「そのすべての戒めを・・・」が、とても気にかかる。しかし、それら全てのことは、神が民を救いに入れて下さったことに基づいている。民は、感謝に溢れて義務を果たすよう、期待されているのである。

3、神が主権者であられること、そして、その神がイスラエルの民を、エジプトの国、奴隷の家から連れ出して下さったこと、その大いなる御業こそ、決して忘れてはならないことであった。このように民に示された十戒、すなわち「道徳律法」の要約は、今日の私たちにとっても、大切な戒めである。救いに与った民にこれが与えられたこと、そのことは、私たちにも当てはまる。すなわち、主イエス・キリストを救い主と信じて、罪を赦され、魂の救いを受けた私たちは、感謝をもって神に従うことが求められている。救われるために良い行いをするのではなく、救われたからこそ、神の愛に応え、戒めに従い、神を愛し、また隣人を愛するのである。強いられてではなく、心から、喜んで戒めを守ること、そのような神に対する従順、また服従を、神は求めておられる。私たちは、十戒に関して、生ける神に対する愛の応答として、これを守ることができるよう祈りたいのである。

<結び> 「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。・・・」との勧めは、十戒を心に留めて生きる私たちにとって、大切な教えの一つである。(ペテロ第一1:15)私たちは、この地上の生涯にあって、罪との戦いが果てしなく続く。聖なるものとなりたい、聖なるものとされたい・・・と祈りつつ、自分の内には、聖なるものがない事実に、しばしば決定的に打ちのめされる。その繰り返しに、唖然とさせられることがある。解決はどこにあるのか。神が要求しておられる善の基準は、それを知れば知るほど、私たちは、そこから遙か遠くにいる事実を悟るしかない。けれども、その事実に気づいて、私たちは、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることが導かれるのである。私たちが救いに与るのは、キリストが十字架で血を流して下さったことによる。これ以外に決して救いはない、ということを。

 「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:18〜19)十戒によって、私たちの生き方、行いや言葉が整えられることを願いつつ、同時に、必ずキリストの十字架を仰ぎ見ること、そのことを通して、私たちは神の民であることを確認させられ、天の御国へと歩み続けることが導かれるのである。喜びと感謝をもって、この信仰に堅く立たせていただきたい。