「神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。」そして、「道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。」では、「十戒の要約は、何ですか」と問42に続く。その答えは、「十戒の要約は、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なる私たちの神を愛すること、また自分を愛するように私たちの隣人を愛することです。」この要約の仕方は、主イエスがはっきりと語られたものである。申命記6章5節とレビ記19章18節を引用し、「律法と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と言われた。十戒に定められた戒めは、突き詰めると「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に要約されると、主イエスは教えて下さったのである。
(34〜40節)
1、十戒は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」から始まり、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない」に終わる。十の戒めが並ぶ中で、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」と、「あなたの父と母を敬え」の他は、「・・・してはならない」との禁止命令である。そのため、「戒め」と聞いただけで、人は「禁止命令」ばかりと受け止め、私たち人間の心や行いを、ただ縛るものと考えてしまう。けれども、最初に人の心に啓示された「道徳律法」は、人にとって、欠くことのできないものであり、神と親しく交わる道筋を示すもの、また人と人との関係を豊かにするものとして、根幹となる大切なものであった。主イエスは、その大切な点を改めて示し、人が心から神を愛し、神に仕えること、そして隣人を愛すること、それも自分自身のように愛することを、神が望んでおられることを語られたのである。
2、「道徳律法」とは、人間を造られた神が、人間のために定めて下さった「善悪の基準」である。それは、初めから啓示され、人の心に書かれていた。ところが、神に背いて堕落したことによって、見失われてしまった。けれども全く失われたのではなく、損なわれたとしても、尚も残され、良心の働きとして、人の思いと行いに対し、大いに影響を与え続けているものである。そのような事実を踏まえた上で、神はイスラエルの民を選び、モーセの時代になって「十戒」を与え、神を愛し、神に従う道を明示されたのである。その服従の道には、人と人との関わりが含まれ、人を愛し、人を尊ぶことについても、書かれた文字をもって示されたのである。ところが、イスラエルの民は、「律法」は、人の行いを規定するもの、或いは「戒め」を、ただ言葉の上で守ればよいものと考え、神が人の心の中を見ておられることを忘れたのである。主イエスは、当時の人々の誤りを指摘し、「十戒」の本当の意味、また神が願っておられる本質を説き明かされた。神が私たち人間に求めておられるのは、神を愛し、神を心から敬うこと、そして隣人を愛し、隣人を心から尊ぶことであると。
3、神を愛することについて、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」と言われる。申命記では「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。主イエスは、その言葉を引用して、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして・・・」と言われた。一連の「心」「精神」「力」「思い」は、私たち人間の内面、その全ての部分を指している。心の奥底にある様々な思いや感情、意志、知識、力、それらの全てをもって神を愛すること、全身全霊をもって神を愛し、神に従うかどうかが問われている。そして、神を愛することを通して、私たち人間は愛を知り、愛を受けて、他の人との関わりに向かうことができるのである。その時、「自分を愛するように私たちの隣人を愛すること」が求められる。もし身近に、助けを必要としている人がいるなら、その人が「隣人」であることを心に留めること、それが私たちに求められている。神は「十戒」を通して、私たちがどのように生きるのか、大切な視点を教えて下さるのである。
<結び> 「道徳律法」は、「十戒」に要約され、その「十戒」は、大いなる「愛の律法」として要約される。そして、この「愛の律法」を守るのは、どのようにしてか・・・が、私たちの課題である。私たちはしばしば愛を巡って、これを誤解し、神の愛を見失う。堕落した人間は、自分中心に物事を考え、本質を理解する道筋を誤るからである。神を愛し、神に従う故に隣人を愛する筈が、神に従うことは二の次のまま、隣人を愛することを考え始め、必ずのように行き詰まる。神を否定しつつ、本当の意味で隣人を愛することは、ほとんど不可能なのである。神を愛するからこそ、隣人を愛する道を選び、その道を日々歩もうとする、そのような生き方が求められている。
そのように生きるためには、やはり、主イエスが歩まれたように、私たちも歩むよう祈らねばならない。主イエス・キリストが私たちを愛し、十字架の死にまで、私たちを愛し通して下さったので、私たちの罪は赦されるのである。私たちは、そのようにして現された神の愛を知って、初めて愛を知ることができる。その私たちが神の愛に生きること、それが確かな証しとなるのであって、神は私たちに、そのように歩むこと、生きることを命じ、また期待しておられるのである。私たちは、たとい不完全でも、キリストにあって確かな歩みが導かれることを心から感謝し、この地上の日々を歩ませていただきたい。
(※ヨハネ第一4:1-12、5:1-3)
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