礼拝説教要旨(2014.01.12) ウェストミンスター小教理問答<40,41>
心に書かれている道徳律法
(ローマ 2:11〜16)
 
 「神が人に求めておられる義務は、神の啓示された御意志に服従することです。」問39に対する答は、明解であった。確かに、神が人間をお造りになられたその初めから、神は人間が神の御意志に従うことを願っておられた。「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2:16-17)神はそのように命じることによって、人に服従を求めておられたのである。けれども、それよりも前に、人の心にご自身の「御意志」を、「道徳律法」として書き記しておられた。問答40が明らかにするのは、そのことについてである。

1、問40「神は、人の服従の基準として、何を啓示されましたか。」 答「神が人の服従のために最初に啓示された基準は、道徳律法でした。」神が人間をお造りになられた時、「道徳律法」を啓示して、人間に服従を求められたのである。それはどのようにしてなのか、それが私たちの気になることである。創世記の記述から、その答を見出すのは難しい。しかし、大事なヒントが、神に似せられ、神のかたちとして人間が造られたことにある。何が善しとされ、何が悪とされるのか、人間の心にはっきりとした基準が、初めから書き記されたことになる。ずっと後になって、その「道徳律法」の要約として「十戒」が明らかにされる。けれども、神の御意志として啓示された「道徳律法」は、全ての人間の心に書かれている。全ての人の心に良心があり、常に善悪を意識することが備わっているのは、そのためである。

2、問41「道徳律法は、どこに要約的に含まれていますか。」答「道徳律法は、十戒の中に要約的に含まれています。」「十戒」が人々の前に明らかにされたのは、モーセの時代であった。イスラエルの民は、初めて神の御意志を知らされたのではなく、全ての人が従うべき「道徳律法」を、改めて悟らされるため、代表してこれを受け取っていたことになる。罪に堕ちて、神に背いて歩むばかりの人間は、自らの心にある良心の声を退け、自分の思うまま悪に走り、いささかも立ち止まることはない。そんな人間のため、神の御意志である「道徳律法」を、「十戒」の形で提示されたのである。「十戒」は、神の民イスラエルのためにだけ与えられたのではない。また神の民だけが「道徳律法」を持っているのでもない。ユダヤ人たちが、自分たちには律法があると誇ったことは、実は的はずれなことであった。なぜなら、人が神の目の前に、よしとされる生き方をしているかどうかは、心に書かれた「道徳律法」に従っているかどうか、それを神がご覧になるからである。(11〜15節)

3、全ての人間にとって、神に従っているのか、そして神の戒めに叶っているのか、それは律法を持っているか否かや、律法を知っているか否かより、律法に叶って、実際に生きているかどうか、それが肝心なことである。全ての人に良心が備えられ、善悪を意識するように人は造られている。その事実は、聖書を知る知らないに拘わらず、いつの時代、どこの国にあっても、人が道徳的判断を下しながら、歴史を刻み、文化を築いていることに明白である。神なしで生きようとする人々は、神を否定することに全精力を傾け、神を敬うことは全く考えないとしても、人と人との関わりについて、「道徳律法」が明らかにするものは、全人類に共通する普遍的な戒めであることを、誰も疑うことはない。人を愛し、人のために生きること、人に仕え、互いに仕え合って生きることを、神は全ての人に望んでおられるのである。極論するなら、もし私たちが神を信じていると言いながら、「律法の命じる行い」を疎んじて、それを行うことがないなら、私たちの信仰は空しいものとなる。心に書かれている「道徳律法」があることを、私たちは、はっきりと覚えていたい。その律法の命じる行いに生きているかどうか、そのことを神は見ておられるからである。

<結び> では、「律法の命じる行い」をしているなら、人は神の前によしとされるのだろうか。究極のさばきの日に、神の前に顔を上げることができる人は、果たしているのだろうか。私たちが心に留めるべきことは、私たちの罪の深さである。また私たちの不完全さである。知らずして「律法の命じる行い」を果たす場合であっても、また「律法」を知っていて、その命じる「行い」を果たすにしても、いずれであっても私たちは、その要求を完全に満たすことは不可能である。すなわち、私たちは神の前に顔を上げることができないのである。イエス・キリストにあって、罪を赦されることがなければ、私たちは、神の前に立つことはできない。キリストを信じているか否か、これこそが肝心とパウロは語る。(16節)従って、キリストにあって神の民とされているからこそ、神の御意志である「道徳律法」に、心から従いたいと願うのか、それが私たちの課題となる。キリストを救い主と信じる私たちが、心からの服従を神にささげ、神の栄光を現わして歩むこと、それが大事と気づかされる。日々祈りをささげ、また主の日毎に礼拝をささげ、主を証しする歩みを歩ませていただきたい。キリストを証しする者として・・・。