主の2014年、丁度、週の半ばに元旦を迎えた。主の日毎の礼拝の他に、礼拝のために教会に集う幸いを心から感謝したい。神を第一とする歩みをするに当たり、年の始めに、神の前に出ることは、その信仰に立つことを明確にさせられるからである。そして今年は、クリスマスに続くメッセージとして、イザヤ書の言葉に耳を傾けてみたい。救い主の誕生の預言は、国と国の争いの最中に、「平和の君」の到来として語られていた。力ある王にではなく、神に信頼すること、神に頼って、真の平和こそ求めるべき・・・と、預言者は語っていた。そのメッセージを私たちは、果たして聞いているのだろうか。
1、メシヤの到来、すなわち救い主キリストの誕生を預言する言葉として、7章14節があり、9章6〜7節がある。更には11章1節以下の言葉もある。戦いに勝利することを第一とし、民を守る主なる神がおられることを、王も民も忘れていた。神に頼るより、富を蓄えること、また軍備を整えることを優先したので、預言者は、このままでは国が滅ぶと警告を発し、踏みとどまるように、そして神に立ち返るように勧め、戦いを止め、神が与えて下さる平和を待ち望もうではないか、と懸命に語り続けていた。イザヤだけでなく、同時代には預言者ミカも、殆ど同じメッセージを語っている。戦いは必ず止むと語り、民が、神にこそ向くようにと語り続けた。今すぐに戦いを止めるように、そして神ご自身が、終わりの日に、完全な平和をもたらして下さると、人々に真の望みを語り続けたのである。
2、2章1節以下は、そのようなメッセージの中で、特に明確に戦いの終わりについて語られている。戦いが終わるのは「終わりの日」と、そのように読める。けれども、ただ「終わりの日」に戦いのない、静かな平和が来るというのではなく、主ご自身に従う民がいて、彼らが主に従って、主の「ことば」、すなわち、主の「おしえ」に従うこと、これがカギを握っていることに触れている。人々が、神の教えに聞き従い、「剣を鋤きに」また「槍をかまに」打ち直すことをよしとすること、「国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」こと、そのことによって、戦いは止むのである。これを実現するかどうかは、教えを聞いた者が、この教えに従うかどうかにかかっている。「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」(5節)今日の私たちが、「主の光に歩もう」という招きに、応答することが求められている。
3、私たちが住むこの日本は、1945年8月15日の敗戦以来、不戦の意志を憲法に込めた国として、ここまで歩んできた。実際には紆余曲折して、今年は何が起こるのか、一体何を始めようとするのか、かなり不透明な年の始めである。「二度と戦いのことを習わない」と、そう考えたのではなかったのか。ところが今や、経済重視を旗印に、武器を生産し、それを輸出しようと、産業界は虎視眈々である。徴兵制度を臭わす発言や、国のために殉ずる思いを、いかにして若者に植え付けるか、政治家の声高な発言が報じられている。私たちの心の目が曇らされることのないように、また心の耳が塞がれないように、そして語るべき言葉を発する口が封じられることのないように、心して、神に信頼する信仰に生きる決意を堅くされたい。「主の光に歩もう」との思いをもって。
<結び> 主イエス・キリストは、「平和の君」としてお生まれになった。暗闇を照らす「光」として、私たちの住む、この世界に降りて来られた。私たちが歩むべき道は、「小道」なのかも知れない。世の人々と接点を見出すのが難しかったり、私たち自身も困難を感じたり、いつもいつも喜んでばかりはいられない、そんな道かもしれない。主イエスご自身が、語っておられる。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)私たちは、主イエスにこそ従う者たちである。世の富や誉れに、心を動かされることなく、また人の目を恐れることなく、主の光の中を歩ませていただきたい。
この一年、何が襲い、何が起こっても、主なる神を信じ、主に信頼して、主が導いて下さることを待ち望んで歩めるよう祈りたい。互いに覚え合い、また祈りによって支え合うことも導かれたい。主と共に、そして主にある兄弟姉妹たちと共に、日々歩ませていただこうではないか。
|
|