ベツレヘムで生まれ、飼葉おけに寝かせられていた救い主を、最初に礼拝する喜びに与ったのは、野原で夜番をしていた羊飼いたちであった。彼らは、御使いが告げた「すばらしい喜び」の知らせを、はっきりと聞き分けることができた。神をあがめる彼らの信仰は、一層増し加えられていた。クリスマスを祝った私たちの信仰も、また一歩、前に進むことを導かれたことを感謝したい。今年は、博士たちのことを礼拝では触れないままとなったが、今朝も、ルカの福音書に記されている、もう一つの出来事に目を留めてみたい。マリヤとヨセフが、幼子イエスを連れてエルサレムの宮に行った時のことである。
1、マリヤとヨセフは、「モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき」、「幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。」律法では、男の子が生まれたなら、八日目の割礼の後、母親は更に33日間のきよめの時を経て、初子を贖うための儀式が定められていた。(レビ12:2-8、出エジプト13:2、民数3:12-138:16-18) 出産後のきよめの儀式と、初子の贖いの儀式が重なった形で三人は宮に行ったのである。聖なる方の子として生まれた幼子でありながら、汚れた人間が、神の前にその汚れを取り除かれ、清くされる必要をはっきり覚えさせられる儀式を、落ち度なく果たすことになった。マリヤとヨセフが心から願って行ったことが、それと気づかないまま、神の救いのご計画にかなって、一つ一つ意味のあることとして成されたのである。罪に汚れた人間を救うため、人となられたイエスは、元々、神のひとり子として聖なる方でありながら、世に来られたのである。低くなられたお方は、いささかの割引なしに律法の定めを満たし、罪の贖いを全うするために歩んでおられた。それは、貧しさの極みを経験されつつのものであった。誰一人、救いから漏れることのないためであり、そのように歩まれた救い主に従うことを、全ての人が倣うべきと、指し示しているのである。(22〜24節)
2、そのように初子の贖いの犠牲をささげるため、両親が幼子を連れて宮に入った時、そこでシメオンと出会った。「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。」神を信じて、心から神の救いを待ち望んでいた彼には、聖霊によって、「主のキリストを見るまでは、決して死なない」との、強い確信が与えられていた。主なる神は、このシメオンに聖霊を注ぎ、幼子に関しての啓示を与え、神のご計画を告げさせるために用いようとされたのである。彼は聖霊に促され、宮に入り、「幼子を腕に抱き、神をほめたたえ」た。「『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。・・・・』」神が約束された救いは、この幼子にあることをはっきり悟らされた。直感にも似た、迷いのない確信として、彼は、幼子こそ「御救い」と歓喜した。その救いは「万民のために備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」と、救いはイスラエルだけに留まらず、異邦人に及ぶもの、万民のものと誉め歌った。彼は幼子のその姿に、神の慰めを見出した。この幼子によって、救いは万民に届けられると確信したのである。両親は、いろいろ語られることに驚くばかりであった。(25〜33節)
3、両親の驚きは、シメオンが続けて語った言葉で、更に深まったに違いない。彼は幼子について、人々が倒れたり、また立ち上がったり、そして反対を受けるしるしとして定められていると語るとともに、多くの人の心の思いを明らかにする、そんな働きをすることを告げたからである。そのような波乱に遭うので、母マリヤの心は穏やかではいられない・・・とも告げている。万民に救いをもたらすと同時に、このイエスの前に、人々の心は露わにされることが避けられず、救いを喜ぶ者とそれに無関心な者が、いよいよ明らかになるからである。いと低く、卑しき姿となられた救い主、そして、十字架の死にまで歩まれた救い主の姿は、上を上をと、知恵や力を求める人々には、大いに躓きとなり、愚かで、絶対に受け入れられないことである。幼子のイエス、そして十字架につけられるイエス、どちらも、人の心が何を求めているか、何を喜んで、何を一番大事にしているか、そんな大切なことを露わにする。クリスマスにただ騒ぐのか、それとも救い主のお生まれを喜ぶのか、その違いの大きさを、神ご自身は始めから分かっておられたのである。神の前に、私たちは一層、心を低くすることを導かれることが大事なのである。(34〜35節)
<結び> このエルサレムの宮で、もう一人アンナという女預言者が、幼子のイエスに出会っている。やもめとなり、84歳になっても、宮を離れず、「夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」彼女は、幼子に会って感謝に溢れ、同じように神の救いを待ち望んでいた人々に、幼子のことを語ったのであった。神はご自身の民をお忘れになることなく、救い主を遣わして下さった、この方こそ待ち望んでいた贖い主・・・と。ルカの福音書によると、幼子に出会ったのは、マリヤとヨセフ、羊飼いたち、そしてシメオンとアンナである。マタイの福音書には、博士たちのことが記されている。万民の救いのためにお生まれになったイエスに、確かに様々な人々、年齢も職業も多彩な人々がお会いしている。今朝の聖書個所のアンナは84歳、シメオンも老人と考えられ、彼は幼子に会って、今こそ安らかに死ねると感激している。
救い主イエス・キリストは、まさしく人が幾つになっても、真の救い、真の平安を与えて下さる方であると、私たちは気づかされる。万民のための救い主と。年の若い人々にも、壮年の人々にも、そして老年と言われる人々にも、人種や国籍、職業等を問わず、多くの人々に、私たちはキリストの福音を宣べ伝えるように導かれているのである。その使命を果たせるよう祈りたい。
|
|