「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)イザヤが告げた神の預言は、ナザレに住むマリヤが、聖霊によって子を宿すことにおいて成就していた。更に、住民登録のため、マリヤとヨセフがベツレヘムへと向かうことにおいて、メシヤに関する出生の地の預言も、確かに成就することが導かれた。(ミカ2:5)「彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。」(6〜7節)やがてイエスと名づけられる幼子が、ベツレヘムの町で、布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられていた。これが最初のクリスマスの一場面である。
1、救い主を世に遣わすという、神の永遠からの救いのご計画の一端は、こんなささやかな出来事であった。神は、ご自分に背を向けてしまった人間を救うため、人間を再びご自分との親しい交わりに立ち返らせるため、人間の所に近づこうとされた。神として人間に近づくのではなく、人間となって、人間と同じ道を歩むことをよしとされたのである。人間となるに当たり、最も低くなる道を選ばれ、どんな人をも分け隔てしない道を開くため、幼子となり、全くの無防備の姿で、飼葉おけに寝かせられていた。最も弱い者の姿となられたのである。それは、この世の支配者たちが、その地位を守ろうとし、力を誇示する仕方と、余りに違った姿である。この世の支配者は、近づこうとする者を排除し、助けを求めても、自分に益がない場合には、何ら手を打つことはしないのが常である。けれども、真の救い主は、誰もが近づくことのできる方として、世に来られていた。そして神は、この幼子の誕生、救い主の誕生を、野原の羊飼いたちに先ず知らせ、彼らに救い主を拝する喜びを与えようとされた。(8〜10節)
2、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(11〜12節)御使いは、民全体のためのすばらし喜び、大きな喜びの知らせとして、救い主の誕生を告げていた。救い主が、ダビデの町、ベツレヘムで「きょう生まれた」こと、生まれた事実を告げるだけでなく、「あなたがたのために」と告げ、「この方こそ主キリストです」と告げている。「この方こそ」信ずべき方、あなたがたを救う方、あなたがたが見つけようとするなら、必ず見出すことができる所に、必ずおられる!!と。今すぐ出かけるなら、間違いなく、そこにおられる・・・と、「飼葉おけのみどりご」を告げていた。「みどりご」は、人を遠ざける場所にではなく、探せば見出せる所にいること、他に見間違える姿でなく、近づく者を待つように寝ておられるというのである。
3、御使いの知らせを後押しするように、また、羊飼いたちを促すように、天の軍勢の賛美が響き渡った。「・・・『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(13〜14節)羊飼いたちは、御使いの知らせをしっかりと聞いて、これを受け止めていた。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださった出来事を見て来よう。」(15節)彼らは、主なる神が、自分たちに「救い主の誕生」を知らせて下さったことを聞き分けたいた。彼らは、「マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」その喜び、驚きと感動は大きく、神が御使いを通して知らせて下さった事実を、出会った人々と共に確認し合った。特にマリヤは、神の御手の業の一つ一つを、心に納め、思い巡らしていた。その記憶が、この福音書が記される、元々の資料の一つとなっている。帰路についた羊飼いの心に、果たしてどんな思いが溢れていただろうか。神が、自分たちに近づき、救い主の誕生を知らせて下さったことを、彼らは大喜びしていた。「全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」救い主である主キリストを拝した喜びと興奮が、しばらくは冷めることなく過ごしたのに違いない。すなわち、神を信じて生きることの尊さ、そこにある力、希望と勇気を見出していたのである。(16〜20節)
<結び> 救い主として生まれた幼子は、八日が満ちて、割礼を施す日となり、「イエスという名で呼ばれることになった。」(21節)マリヤにも、またヨセフにも命じられていた名、「イエス」は、ヘブル語の名「ヨシュア」「ホセア」のギリシャ語読みで、「主は救い」または「主は救い給う」を意味する。多くの人が好んだ名前と言われ、救い主について、神ご自身が特に命じて「イエス」と名づけさせ、羊飼いたちには、「この方こそ主キリストです」と、約束された「メシヤ」であることが告げられた。今日、クリスマスが世界中で祝われているのは、「この方こそ」、全世界の人々が本気で信ずべき方であり、この方以外に決して救いはないことを告げる、生ける神ご自身からのメッセージであることを、私たちは、真剣に受け止めたい。私たち一人一人、私はこの方を信じているのかどうか、自分の心に問い直そうではないか。私たちが、このお方に近づくのに、何の妨げもなく、躊躇うことなく近づけるよう、幼子となって、ベツレヘムでお生まれになったのが、私たちの救い主イエス・キリストである。
人の世は、権力を求め、強さや賢さを誇る。競争に勝ち残ることを追い求め、上昇志向ばかりがもてはやされる。それに対して、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」は、最も低くなられた神が、弱さの極み、すなわち、他の人の助けなしに生きられない状態にあられた。弱さの中で苦しむ者、心悩む者こそ、わたしの所に来なさいと、罪の中に沈んでいる者を救う方として、救い主はお生まれになっていたのである。幼子イエスのお姿を思うなら、私たちの心はきっとほぐされるに違いない。幼子となられた救い主は、私たちが近づくのを待っておられるのである。このクリスマスに、主イエスを信じる信仰を堅くさせられること、また新たにされることを祈りたい。
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