礼拝説教要旨(2013.12.15)
マリヤは月が満ちて
(ルカ 2:1〜7))
  
 預言者イザヤが語った救い主の到来の約束は、その成就に至るまで、長い年月を要していた。旧約聖書により、神を待ち望む信仰を養われていた人々が、確かにいたとしても、大半の人々は、この世の様々な出来事に翻弄され、目の前の生活に精一杯であったと思われる。国が滅ぼされ、多くの民が他国に連れ去られたり、独立を願う反乱あり、鎮圧されと、波瀾万丈の末、ローマ帝国によって、それなりの平穏が訪れるまで、およそ700年が経過していた。ローマが地中海沿岸のかなり広い地域を治め、その支配下でユダヤの人々が生かされていた時、神のご計画が実現へと向かわせられていたのである。

1、聖書が告げる救い主の到来は、先ずその準備として、祭司ザカリヤとエリサベツの老夫婦に、男の子の誕生の約束を告げることから始まった。人間の常識を越えた出来事が、本当に起こることを教えるためであった。これは神の奇跡であったが、もっと奇跡的なこととして、処女マリヤの胎に男の子が宿ることが、御使いによって知らされた。マリヤは、恐れと戸惑いの中で、神に不可能はないことを知らされ、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と、神を信頼して、自分を明け渡していた。(1:34-38)事の次第が分からずに悩んでいたヨセフは、御使いを通して、マリヤの胎に子が宿ったのは、聖霊によること、その名をイエスと名づけられる男の子は、救い主であることを知らされ、夫としての役割を引き受けていた。(マタイ1:18-25)やがてエリサベツはヨハネを産み、マリヤ自身も出産の時を待つ身となっていた。そんな頃、皇帝アウグストの勅令に従い、二人はナザレからベツレヘムへと向かった。マリヤにはやや過酷と思われる旅であったが、他の人々と同じように、住民登録のため、「それぞれ自分の待ちに向かって行った。」(1〜5節)

2、いつの時代、またどこの国でも、為政者は自分で良かれと法律を作り、制度を設け、政策を実行に移すものである。一般の人々は、それに振り回され、悲しい思いや苦々しい思いをさせられる。怒りを覚えて反抗する者もあり、現実の社会の複雑さを思い知らされる。アウグストが支配したのは、紀元前31年から紀元14年の45年間である。ローマによる平和が訪れ、表面では落ち着いていたものの、裏では不満も増していた。人々は淡々と服従しつつ、心は穏やかでない、そんな日々も送っていた。マリヤとヨセフ、この二人は自分たちの責任を果たそうと、心に決めてベツレヘムへ向かったのに違いない。自分だったらどうするだろうか、そのことが気になる。どうしてヨセフ一人で行かなかったのか・・・等々。二人が何を考えたかは別として、生ける神ご自身が、背後で全てを支配し、導いておられた。救い主の到来、また誕生の預言は、処女降誕だけでなく、誕生の地がベツレヘムであることも告げていた。神はその約束も果たそうとされた。人間の側では、目の前のことをこなすだけの時、神の側では、確かなご計画の下で、全てを支配しておられたのである。(※ミカ5:2)

3、ベツレヘムに到着した二人に、宿の当てはなかったようである。「ダビデの家系であり血筋でもあった」というのに、親族もなく、知り合いもなかったのかと疑問に思う。けれども、ユダヤ人の国が、異国にそれほど踏みにじられていた。二人は、とても貧しく、頼る人もなくて、ようやく寝泊まりする場所を見つけ、そこで過ごす内に、「月が満ちて、男子の初子を産んだ」のである。余り予期しなかったのか、それとも、そうなることを思って、布を用意していたのだろうか。「布にくるんで、飼葉おけに寝かせた」と、そして「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と記されているのは、やはり尋常ではなかったことを物語っている。幼子のイエスは、そのようにしてお生まれになった。人知れず、ベツレヘムの一隅で、お生まれになっていた。「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ」と記されている。正しく神のご計画にそって、預言の約束の時が満ち、神の御子イエスが世に来られたのである。神のご計画は、全く狂いなく、ものの見事に実現していた。クリスマスの出来事は、神の救いのご計画が、預言の通りに実現し、この幼子が、やがて十字架の上で罪の身代わりの死を遂げ、三日目によみがえる方、救い主キリストとして歩み始める、その始まりであった。

<結び> 「月が満ちて」マリヤが男の子を産んだことは、神のご計画の時が満ちて、救い主の地上の生涯が、確実に始まったことであった。やがて、この出来事の祝いは、全世界の人々と必ず関係のある事柄として、全世界に広がるのである。十字架と復活が福音の中心であることに加えて、クリスマス=救い主の誕生の祝いが、世界中で祝われる不思議を、誰も否定できない。少々的はずれな祝い方が、益々広がる今日である。けれども、誰も無視できず、否定もできないこと、それが救い主の到来、誕生である。世界で最も一般的に使われる暦は、キリスト誕生の以前(Befor Christ)と以後(Anno Domini)によって、年を数えている。日本では無理矢理「西暦」とい呼び、イスラム圏では言い方を変えているとのこと。しかし、どんなに抵抗したとしても、神の支配は、全人類に及んでいる事実を覚えなければならない。

 その上で、私たちの命、私たちの全生涯も、神の御手の中にあることを覚えたい。どこで生まれ、どこで、どのように育つか、それら全てを神が知っておられることを感謝しようではないか。確かに私たちは、この世の力ある者に振り回され、何と空しく日を過ごすのかと、嘆きさえするかもしれない。良いことなどなかった、自分には不利益ばかりが降りかかり・・・と。もちろん、感謝に溢れ、ここまで来られたと、心から言える方が沢山おられるに違いない。誰もが、自分をよくよく振り返るなら、神の恵みは満ち溢れていたことに、必ず気づくものである。だからこそ、神の絶対的な守りを、そして何があっても揺るがないご計画を信じて、今を生き、これからも生きていきたいのである。どんなに苦況に立たされても、神を仰ぐ者とさせていただこうではないか。マリヤとヨセフの姿に、神に信頼する者の平安を見出し、それに倣うことができるなら、何と幸いであろうか。