礼拝説教要旨(2013.12.08)
インマヌエルの神
(イザヤ 7:1〜17)

 今年は、救い主のお生まれを待ち望む時、「待降節」がぴったり12月に収まる、そのようなクリスマスの季節を迎えた。いつものことであるが、世間のクリスマスとは違う、本当のクリスマスを喜び、心から祝いたいと願い、み言葉に耳を傾けたい。主は、何を語って下さるのか、心の耳を澄まして聞きたい。今年も、昨年と同じように、先ずイザヤ書に目を留めてみたい。もう一度、そこに込められた神からのメッセージを聞きたいと、強く思わされている。救い主のお生まれの預言が、この世の王が、国家存亡の危機を感じる中で告げられていたこと、そのことが、とても気になるからである。王一人だけでなく、当時の民も、恐れの中、激しく心が揺れ動く中で、この預言を聞いていた筈のことに、しっかり目を留めたいのである。私たちの日々の生活も、いつも何かしら恐れや不安、また迷いや戸惑いに直面しているからであり、そのような時、何をするか、とても気になるからである。

1、イザヤ書7章14節の言葉、「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」は、「処女降誕」を告げる預言として、よく知られている。そしてこの預言は、処女マリヤが男の子を産んだことによって成就したと、聖書は明確に告げている。(マタイ1:18-25)預言者イザヤは、神から遣わされて、アハズ王の前に立っていた。イザヤは、王と対決するにあたり、自分の子を連れて行くよう命じられ、そのようにしていた。のんびりなどしていられない、危機的状況でありながら、神はあえてそのように命じておられた。アハブ王はもちろん、民も、国が滅ぼされるかもしれないと、激しく動揺した時のことである。北の大国アッシリヤに対抗しようと、北イスラエル王国とアラム(シリヤ)が南ユダ王国に同盟を持ちかけが、アハズ王はこれを拒否して戦争となった。イスラエルとアラムが同盟してユダを攻め、しかし決着はつかず、一端は引き上げた後のことである。アラムとイスラエルが、尚も留まっていることが分かって、王も民も激しく動揺した。去った筈の脅威が、まだそこにあると知って震え上がったのである。(1〜2節)

2、何かしらの「恐怖」または「脅威」が、私たちの心の中を駆け巡る、そんな経験を、誰もがしているに違いない。そんなことが、「あった」という過去形なら良いが、今、「恐れの中にある」という現在形の場合、それは大変である。神が預言者を遣わされたのは、恐れの真っ只中にある王の所であった。神のメッセージは、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・・心を弱らせてはなりません。・・・」と、神ご自身が、全てを知り、全てを支配しているとの宣告が中心であった。「わたし」を信じなさい、「神である主」に頼りなさい、それが今あなたがたのなすべきことと、告げていた。(3〜9節)神は、王と民が、恐れおののいているのを知っておられた。それで預言者を遣わして、「恐れなくてよい。わたしがついている」と、確かな守りを約束された。ところがアハズは、信じなかった。神の助けよりも、自分で考える逃れの道を、必死に模索していた。彼は、イスラエルとアラムよりも、もっと強い国、北の大国アッシリヤを頼って、挟み撃ちにしようと考えた。それはこの世的には名案、目先の助けは保証されるかに見えた。私たちも、同じように考えることであろう。目に見えない神に頼るのは、何とも心許ない、自分で何とか手を尽くさねば・・・。そしていかにも頼もしげな人、物、手だてこそ・・・と、自分の知恵や力を過信するのである。

3、けれども、神は、そんな自分勝手なアハブさえ見捨てず、尚もイザヤを遣わされた。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」「わたしを呼べ。わたしに拠り頼め!」と、招き続けておられた。それなのに、王は神に頼ることはしなかった。(10〜12節)そのような時、14節の預言が語られたのである。神の成さる不思議に心に留めよ。人の目に絶望と見える時こそ、神が不思議を成さることを知れ・・・と。(13〜14節)神は人の思いを超えた不思議を成さる。そして生まれた男の子を「インマヌエル」と名付けられることを告げ、神がいついかなる時も、ご自身の民と共におられることを約束された。それは聖書に一貫して流れている、確かな約束であった。それは、注意深くしているなら、必ず気づくこととイザヤは告げていた。もうしばらくで、ふたりの王は退けられ、必ず脅威は去ると。(15〜16節)神は、間もなく起こることを告げつつ、ずっと先に起こることをも預言しておられた。目の前の危機はもうすぐに去る、それは「アッシリヤ」によるが、その「アッシリヤ」がかえって脅威となることも近づいている・・・。本当に頼るのは誰なのか・・・。(17節)本当に頼るべきは生ける神お一人である。神である主が、手を差し伸べ、民を守り導いて下さる。「インマヌエル」と呼ばれる神、この神こそ待ち望むべきお方と。

<結び> アハズ王が国家存亡の危機を感じ、この世で力ある王、力ある国に頼ろうとしたことは、歴史上の国々が、同じように繰り返すことである。また、私たち個人も、同じように振る舞い易いことである。恐れに直面し、神に祈るより、目の前の助けを求めて慌てふためく。「静かにしていなさい。恐れてはいけません。」神を待ち望んで、神が共におれる所に、しっかりと立ちなさいと、神は語っておられる。危機は必ず過ぎ去る。大事なことは、いつも主を待ち望む信仰であり、その生き方である。その信仰を身に着けるようにと、「インマヌエル預言」が語られていた。人々は、神が共におられることを知って、神を待ち望むことを学ばされていたのである。

 「神は私たちと共におられる」と呼ばれる神が、その名の通り人となられ、人と共に生き、歩まれるようになる出来事、それが救い主の誕生である。イザヤの時代、神のみ業が数年の間に成ることを通して、およそ700年後のことをも待ち望むよう、預言の言葉が語られていた。私たちは、神が約束された預言が、主イエス・キリストにおいて確かに実現したと、聖書を通して知らされている。神の言葉は必ず成ることを、よりよく信じられる、そんな時代に私たちは生かされている。だから、恐れに直面した時、いざ何に頼るのか、そのことが問われる。神に頼るのか、それとも自分の知恵に頼るのか、また目先の人の助けを求めるのか。インマヌエルの神は、心を閉ざすアハブ王に対しても、彼を見捨てず、見放さず、預言者イザヤを遣わしておられた。その事実は驚きである。私たちは、インマヌエルの神を信じて、益々神を待ち望む者とならせていただくため、毎年、確かにクリスマスを迎えさせていただき、クリスマスを喜び祝うことができるのである。何と感謝なことか!!