問38「信者は、復活の時、キリストからどんな祝福を受けますか。」答「信者は、復活の時、栄光あるものによみがえらせられて、審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され、永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。」これは、主イエスを神の子キリスト、また救い主と信じる者に約束された救いの、天における完成を指している。問答37で、「復活まで墓の中に休みます」と言われている「信者の体」が、「復活の時」に、「栄光あるものによみがえらせられ」ること、使徒信条において告白する「体のよみがえり」のことである。この「よみがえり」こそ、私たちの信仰の根幹であり、同時に、世の人々にとっては、最大の躓きである。使徒パウロは、キリストがよみがえられたので、私たちもまた、復活すること、栄光のからだによみがえらせられると、その望みについて、熱く語ったのである。
1、「復活」または「よみがえり」と言われる言葉は、文字通り、「再び立ち上がる」ことを意味している。死んだ体が、もう一度立ち上がって、生きて動き出すこと、それが「復活」であり、「よみがえり」である。けれども、私たち人間の理解では、そんなことは「有り得ない」、「考えられない」と退ける以外に、どうすることもできない事柄である。墓の中で休んだ体が、時間が経過する中でどのようになるのか、考えれば考えるほど、人間の知識や理性では、答は遠ざかるばかりである。聖書は全く非合理であり、非常識であって、そんな教えはまかりならない、とまで言われる。パウロは、最初、正しくそのような観点で、イエスの復活を広めてはならないと、迫害に燃えたのであった。ところが、そのパウロの前に、復活の主イエスが現れ、彼の人生は180度転換することになった。パウロのみならず、弟子たちは皆、復活の主にお会いしたことによって、復活を信じる者に変えられて行った。そして、体のよみがえりを心から信じる者となったのである。(※15:1以下)
2、「栄光あるものによみがえらせられ」ることは、「栄化」されることであり、それに続くこととして、「審判の日に、公に受けいれられ無罪と宣告され」る。「復活の時」とは、キリストが、栄光の内に再び来られる時であり、その時、墓で休んでいた信者の体は、「栄化」され、既に聖くされ、栄光に入れられていた霊魂と結び合わされ、裁きの座に着くことになる。その裁きの座で、キリストにある者は、公に無罪を宣告される。けれども、その日、キリストを信じないまま、裁きの座に着かせられる者たちは、有罪を宣告され、その宣告は取り消すことができなくなる。(マタイ25:31-46)このことについて小教理問答は、キリストにある者の一人一人が、自分の行く末について、はっきりと確信を持つことの大事さに焦点を当てている。復活の時は、救いの完成の時であり、裁きにおいても決着する時である。最早、恐れることは何一つなくなり、心を痛めることもなく、「永遠に、全く神を喜ぶことにおいて完全に祝福された状態にされます。」すなわち、人が生きる、おもな目的である「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」が、全き意味において実現することになる。
3、このような一連の救いの完成について、パウロが心を込めて語るのが、コリント人への手紙第一15章である。キリストの十字架の死と、死からのよみがえり、この「復活」があって、自分の今があること、またキリストの教会があることを熱く語っている。(3〜11節、12〜14節、19節)「死者がよみがえる」ことについて、そして「からだのよみがえり」については、殆ど説明のしようがないと、パウロ自身が気づきながら、種が地に蒔かれたなら、芽が出て、やがて実を結ぶことを例に挙げ、「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ」と、不思議な神の力を信じることの尊さを訴える。「血肉のからだ」が「御霊のからだ」に変えられること、「死ぬもの」が、必ず「不死と着る」ことなど、神が完全な勝利を与えて下さる時が、必ず来ることを信じるよう勧めるのである。(35〜44節、47〜49節、50〜57節)神は、朽ちるものから、朽ちないものへと一新し、古いものから新しいものへ、死ぬものを死なないものへ、たちまちの内に変えて下さる。キリストにある勝利は、私たち人間の思いをはるかに超えている。神への感謝こそ、私たちに相応しいのである。
<結び> 私たちは、果たして、この確かな祝福を理解できるのだろうか。復活の時の祝福は、私たちの究極の望みであり、喜びである。この祝福が約束されているので、私たちは信じて、今を生きている。けれども、終わりの日の祝福が確かなので、その喜びの余り、今この時のこと、日々の生活のことが、やや疎ましくなるとすれば、それは心すべき課題である。行いによって義とされることはなく、それで救われるのではないにしても、この世での日常生活ををおろそかにするなら、それを神が喜ばれることはない。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分の労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(58節)パウロがこのように語るのは、この日々の生活において、主にあって成す業、日々、それぞれの所で果たす務めを、心を込めて果たすこと、その生きた証しがどんなに大切か、その大事さについてである。神を喜び、神との交わりを心の底から愛する者として、確かな幸いを約束されているからこそ、今を生きることを、何としても導かれたいものである。
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