礼拝説教要旨(2013.11.24) ウェストミンスター小教理問答<37>
キリストにある死の祝福
(ヘブル 11:13〜16)

 問37「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。」答「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中に休みます。」これまで、主イエス・キリストを救い主と信じる者に、神がこの世でどのような祝福を与えて下さるのか、それは「義認」「子とされること」「聖化」、そしてそこから流れ出る、「確信」「平和」「喜び」などであると、問答が続いていた。続く二つの問答は、私たちが、この世を去る時に関することである。全ての人にとって、避けることのできない「死の時」、私たちはどんな祝福が与えられるのか、死の後に、更に何があるのか、救いの完成に関わる事柄である。キリストにある者の、究極の望みについて触れられている。

1、「死」というもの、より正確に、「肉体の死」は誰も避けることができず、全ての人にとって、心に悲しみと痛みををもたらす最大の出来事である。この地上での別れは厳然としていて、悲しみはやがて癒えるもの・・・とは、決して思えない。多くの宗教が、そのためにあり、何らかの答を求めて、人々はそれぞれの門を叩くことになる。また、人のいのちこそが大事!と、どれだけ声高に叫んでも、生まれた瞬間から、人は死に向かっている事実、これは否定できない。どんなに「死」を忌み嫌い、この現実を遠ざけたとしても、「死の時」は必ず、全ての人にやって来る。それ故に、「生きることは死ぬことであり、死ぬことは生きることである・・・」と、よく言われる。しかし、聖書は、全ての人に必ずやって来る「死の時」、誰もが悲しみに沈む時、キリストにある者にとって、その時、キリストにある慰めが豊かにあり、確かな祝福があることを教えてくれる。「死」は、肉体と霊魂とが分離される時である。肉体はちりに帰り、霊魂は神にのもとに帰るが、その霊魂は栄光の内に迎え入れられる、そのような祝福が約束されている。

2、この「死」において、全ての人が息を引き取るので、その時に生きている者は、死んだ者との厳粛な別れを悲しむばかりとなる。けれども「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。」肉体から離された霊魂(※「霊」または「たましい」)は、その時、直ちに、神の栄光の内に引き上げられる。それは、地上で継続されていた「聖化」の御業が、完全に成し遂げられることであって、キリストにある者の死は、ただ悲しみに沈むことでなく、神の栄光の内に入れられる、喜びと感謝の出来事となる。神を退けながら、多くの人が、自分の死後について問い続けている。終活やら生前葬なるものが、盛んに話題となっているが、それは答が見つからず、尚も彷徨うにばかりの現実なのではないか。それに対して、神は、神を信じ、キリストを救い主と信じる者のためには、死後、「直ちに栄光にはいる」祝福を備え、天の御国へと入れて下さるのである。その祝福を、神はご自身の愛をもって用意し、ご自身の民のため、いつもその祝福へと招き続けておられる。その約束を信じる私たちは、その時、全き平安をいただき、喜びに包まれ、神の前に立たせていただくのである。信仰の先輩たちは皆、その望みを抱いて、地上の旅人として歩み抜いたのであった。(13〜16節)

3、「霊魂」と切り離された「肉体」については、次のように言われる。「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」すなわち、「信者の体」は、そこに残され、ただ「ちり」に帰るのではなく、尚も「キリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。」それは、地上の労苦を解かれ、「休み」が与えられることを指している。「霊魂」について、「聖化」の完成は、死後、直ちにというのに対して、「肉体」についての完全な「聖化」は、「復活の時」を待つことになる。それまで、しばらくの「休み」を与えようとされることになる。神はご自分の子たちを、地上での労苦から解き放ち、全き休みを与えて下さるのである。「信者の体」は、「キリストに結びつけられたまま、復活まで墓に休みます」と、心から信じるなら、私たちは大きな慰めを頂くことになる。パウロは、残された者が、徒に悲しむ様子を見て、心を痛めていた。「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。・・・」(テサロニケ第一4:13以下) 墓で休んだ信者の体が、その休みから目覚めさせられる時が、やがて必ず来るからである。(ピリピ3:20-21)

<結び> 聖書は、全ての人が、必ず死ぬことについて語っている。死は、最初の人アダムにおいて、神に背いた罪のため、刑罰として全人類に及ぶものである。その死には、裁きが伴い、神を信じない者は、肉体の死だけでなく、その死以前に霊的に死んでいること、そして霊魂が永遠の死を免れないことなど、いろいろな視点が明らかにされている。その中で小教理問答は、キリストを信じる者は、死の時、どのような祝福を受けるのか、その一点について告げる。私たち、キリストにある者が、徒に死を恐れることなく、また、キリストにある者が死ぬ時、何があるのか分からないまま、その時を迎えることのないように、よき心備えをするよう、端的に整理してくれている。

 私たちが、天の故郷を思い、地上の生涯を生き抜くに当たり、大切な確信として、「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります」と、そして「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中に休みます」と、心から信じ、心から告白できるよう祈りたい。パウロのように、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と、心から言えるなら、それは大きな幸いである。(ピリピ1:21) 死は、私たちを苦しめ、悩ますものではなく、霊魂の救いが約束されているので、生かされている限り、神に仕え、人に仕えることを喜びとするよう期待されているからである。地上の生涯を終える時が、いつ来るとしても、それは栄光に移される、救いの完成の一幕そのものという事実、これこそ大きな慰めである。