礼拝説教要旨(2013.11.17) ウェストミンスター小教理問答<36>
あふれ出る祝福
(ローマ 5:1〜5)

 問36「この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか。」 答え「この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです。」この問答は、救いに与った者に対して、神が更にどのような祝福を注いで下さるのか、についてである。キリストにある私たちが、この世で、どのような幸いを受けているのか、日々、どのような心で歩ませていただいているのか、信仰生活の喜びは、一体どのようなものなのか、について触れている。その喜びは、実際、目に見えるものや、手で確かめられるものとは違っていることが、いよいよ明らかにされる。

1、おおよそ世にある殆どの宗教が、現世の御利益を説くのは、誰もが気づいていることではないだろうか。その御利益たるものが、どれだけいかがわしく、当てにならないことが分かっていて、それでも惹かれてしまうのが、神に背いている人間の本質なのであろう。大金をはたいて、開運のために壺を買ったり、厄除けのため、札を買い求めたり、そのような現実は、日本中に、いや世界中に見られることである。それに対して、聖書の教え、すなわち、イエス・キリストを信じて救いに与る祝福は、いわゆる「現世の御利益」とは、全く異なっている。そこに、宣教の難しさがある、とまで言われる。けれども、だからこそ、私たちは、自分がいただいている祝福を、はっきりと受け止めているか、問われることになる。神が私たちに注いで下さっている祝福は、「義認」「子とすること」「聖化」であり、それに「伴い、あるいはそれらから流れ出る」ところの「神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍すること」である。

2、「神の愛の確信」とは、神の愛に関して、いささかも疑うことのないことを言う。但し、この確信については、キリストを信じたなら、直ちに皆、同じように確信に満たされる、というものではない。信仰生活の積み重ねの中で、徐々に強くされる人があり、時に、確信が揺らぐ人もある。けれども、神が手を差し伸べ、神の愛の確信へと導いて下さるので、私たちは支えられるのである。「良心の平和」は、神がキリストにあって、私たちの罪を赦して下さった故に、「神との平和」を持っていること、すなわち、神の前に、いつも心を穏やかにしていられる「平安」のことである。魂の救いを得て、心に真の平安が与えられたからである。この「確信」と「平和」に根ざして、「聖霊による喜び」が与えられる。キリストの十字架の贖いによって、新しいいのちに生きるよう、私たちは導かれている。神は途方もなく大きな愛で、私たちを救いに入れて下さっているので、私たちの喜びは、他の何ものにも比べようのないものとなる。(1〜2節)もし私たちが、キリストにあって生きるなら、この「確信」と「平和」と「喜び」は、必ず伴っている。神がこれらの祝福を豊かに注ぎ、導いていて下さるからである。

3、「恵みの増加」と「終わりまで恵みのうちに堅忍すること」は、この地上で生きる限り、神が恵みを注ぎ、いのちの終わりまで、いや肉体の死の後に至るまで、ご自身の民をしっかり支え導き、救いの完成を見させて下さるという祝福のことである。私たちは、自分で気づいていなくても、確実に造り変えられている。ますますキリストに似る者とされている。神の恵みは、私たちに溢れるばかりに注がれている。私たちの心の鈍さが、私たちの心の目を塞いで、それに気づかず、通り過ぎることが多いとしても・・・。神の側では、確実な下支えをもって、私たちを導いて下さるのであって、それ故にパウロは、確信していた。「患難さえも喜んでいます。・・・この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(3〜5節)私たち人間の側は、神が恵みによって成して下さることを、心から感謝するとともに、感謝に溢れて、心から応答することが求められている。救いのため、神は無償の恵みを注いで下さっていると同時に、人に、聞き従うことを求めておられ、信仰の生涯を生き抜くことを求めておられるからである。祝福は溢れるばかりに注がれているとしても、様々の祝福に、本当に与るのは、決して自動的ではないと心に刻まなければならない。(ピリピ2:12-13、ペテロ第一1:13-17、第二1:5-11)

<結び> 「イエスさまを信じたら、死んでも死なない・・・」という、単純な信仰の「確信」から始まった、私のクリスチャンとしての歩みであったが、この確信の中心は、十字架で死なれたイエスさまは、私の救い主と信じたことにあった。神が私を愛して、救い主を遣わされたという、その「神の愛の確信」は、最初は極々小さなものであり、曖昧でぼんやりしていたに違いない。本当にそれでよいのか、そんなことって、本当にあるのか、半信半疑であったに違いなかった。けれども、不十分な確信でも、「永遠のいのち」を与えて下さったのは神であり、神が私の確信を、少しずつ増し加え、信仰の理解を増して下さることによって、「良心の平和」、すなわち「神との平和」を得させて下さり、「聖霊による喜び」へと導いて下さったのである。こうしてキリストに従って歩もうとした私に、神は更に恵みを注ぎ、恵みを増し加え、今日に至るのである。そして私の確信は、「終わりまで恵みのうちに堅忍すること」を、神がさせて下さるということに行き着いている。自動的に恵みや祝福に与るのではなく、私たち自身が、神に従い、自らの救いの達成に努めなければならないとしても、神が私を導き、支え、天の御国に入る日まで、全てを引き受けて下さっていることを、心から信じて歩みたいと、心から願っている。また、そのような信仰の歩みを、共に歩もうとする方が、尚も起こされることを心から祈って止まないのである。