問35「聖化とは、何ですか。」答え「聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。」「義と認められ」、「子とされ」、そして「聖化される」ことは、イエス・キリストを救い主と信じる者に、神が与えて下さる大いなる祝福である。先の二つは、一度きりの神による決定であるのに対して、三つ目の「聖化」は、継続する神の「御業」である。すなわち、神の子とされた私たちにとって、この地上で生かされている現実において、一番身近で、常に覚えさせられる事柄である。神は、ご自身の民とした者たちを、ご自身の聖さに倣うものとするため、「人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しく」し、神の義にかなう者として生かそうとされるのである。
1、この「聖化」も「神の一方的な恵みによる」もので、人間の側の、行いによるものではない。すなわち、聖化される人が、神に良く従い、良い業を行っていると認められたので、それで「聖化される」というものではない。人を「聖化」し、聖い者と造り変え、いよいよ整えて下さるのは神である。人は、神によって整えていただくことにおいて、明確に、また積極的に関わることが求められる。私たちは、意識し、自覚して神の導きに従うことが求められることになる。キリストを信じた者は、自動的に「聖化され」るのではない。また、地上で「聖さ」が完成させられるのではなく、完成は、天の御国まで待つことになる。私たちは、「義と認められ」「子とされ」るとともに、「罪に対して死んだ」者であって、キリストに従い、「いのちにあって新しい歩みをする」者であるとの、明確な自覚を促されている。(1〜5節)十字架で死なれたキリスト、そして死からよみがえられたキリストを、はっきりと信じているのか、ぼんやり信じているのか、その違いが、その人の生き方の違いとなると警告されているのである。(6〜11節)
2、私たちが、何をどのように信じているのか、信仰の中味は、殊の外大事である。けれども、中味とともに大事なのは、どのように生きているかであって、「聖化」に関しては、正しく生き方が問われる。「聖化」は、神の民を内側から造り変える御業である。子どもが大人に成長する過程のように、キリストにある幼子は、やがて成熟した大人へと、完成を目指して歩ませられる。その御業は、かなりの時間がかかると、はっきり覚えなければならない。蒔かれた種が芽を出すまで、また芽生えた茎が成長し、花が咲き、実を結ぶまで、思いの他、時間を要することを忘れてはならない。人間の子どもの成長が、他の動物と比べて、とても時間のかかるのに似て、「聖化」の歩みにも、大いに忍耐が必要である。そのようにして、神が目を注ぎ、手を差し伸べ、ご自身の御業を成しておられることに、私たちは心から感謝することが求められている。最早、罪の支配下にはないものの、この地上にあって、罪と戦うことが求められている。キリストに従う者は、罪を憎み、罪から離れるよう導かれ、罪に安住してしまうことはない。これこそが「聖化される祝福」である。
3、実際に「人間全体わたり」、聖さに向かわせていただくこと、キリストの聖さに似る者へと変えられること、そして、「ますます罪に死に義に生きることができるものとされる」こと、こうした歩みが導かれることが、神の子とされた私たち、キリストに従う者には、欠かせない大切な事柄である。神がご自身の御業として成して下さることでありつつ、私たち自身が、聖霊なる神の導きや助けを通して、実際に果たすべきことである。神が一切を引き受けて下さっていることを認めるとともに、神が導き、促して下さることに従って、「義に生きる」ことを、真剣に求めることが大事となる。神は私たちのために、パウロを通して、「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい」とも勧めておられるからである。(ピリピ2:12-13)私たちは、自分の信仰をどのように捉えているのか、自分で吟味するよう求められている。神が、実に豊かな恵みを注いで成して下さることを、心からの感謝をもって受け止め、感謝の応答として従っているのか、それとも、自分にも何某か誇るものがあると感じながら、励もうとしているのか、その違いには、十分に注意しなければならない。
<結び> 「聖化される祝福」は、私たちがこの地上で生かされている限り続く、確かな神の御業である。神はこの御業によって、私たちに何を教えようとされているのだろうか。時に私たちは、罪との戦いにおいて、意気消沈することがある。信仰によって、罪に対して勝利すること願ったにも拘わらず、かえって自分の弱さや愚かさを思い知らされるからである。何度も同じ失敗を繰り返す内に、自分に失望して、信仰さえ疑ってしまう。物事が上手く行かず、神を信じていても良いことがない・・・と、神に対して呟くこともある。それが私たちの現実である。けれども、神は実にそのような地上の歩みを通して、私たちを訓練し、いよいよ「聖化」し、整え、全人格的に「罪に死に義に生きる」よう導いて下さっている。この事実を覚えたい。
日々、ますます聖く、正しく、良い人となるのでなく、かえって自分の弱さや愚かさ、また卑しささえ気づかせることによって、私たちがいよいよ心を低くするよう、すなわち、「謙遜」を身に着けるよう期待しておられるからである。キリストに似ること、その究極は「謙遜」であると知るなら、これこそ、私たちが地上で目指すべきこと、身に着ける最も大事な徳であると気づかされるのではないか。罪に死に義に生きることとは、このこと!と。私たちが、どこにあっても日々、心を低くして生きるなら、私たちの歩みがキリストの証しとなり、神に栄光を帰す歩みが、必ず導かれるに違いない!神はそのような証しをさせるよう、私たちを世に送り出しておられるのに違いないのである。
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