礼拝説教要旨(2013.11.03) ウェストミンスター小教理問答<34>
子とされる祝福
(ヨハネ 1:9〜13)

 「義と認められ」、「子とされ」、そして「聖化される」ことは、生ける真の神が、主イエスを神の子キリストと信じる信仰に導かれた者に、この世で分け与えて下さる祝福である。これらは、神に造られた人間が、神に背いて罪に堕ちたことによって、自力ではどうにもならないことを、神の側で道筋を備えて下さったことであり、人間が人間として、本当の意味で心が満たされるためには、どうしても必要な祝福である。これなしに、人は決して幸せに至ることはない、という尊いものである。問34「子とされることとは、何ですか。」答「子とされることも、神の一方的恵みによる決定です。それによって私たちは、神の子らの数に入れられ、神の子らのあらゆる特権に権利を持つ者になるのです。」神は、義と認めた者たちを、「子とする」ことによって、一層、ご自身にとって、かけがえのない存在として受け入れていて下さるのである。

1、神に背いた人間は、自らの意志によって、神から遠く離れようとした存在である。しかし、神なしで生きて行けるものと、自分の知恵と力に頼ったが、その結果は、惨憺たるものであった。人は悪に走り、その心に思い計ることは、残念ながら、「みな、いつも悪いことにだけ傾くのを」、認めないわけに行かない。(創世記6:5)そんな罪ある者を、神はキリストにあって赦し、信仰によって義と認め、更に、子として、「神の子らの数に入れ」ようとされた。それは、途方もない大きな愛のゆえのことであり、ただただ、「神の一方的な恵みによる決定です」と言われることである。人に求められているのは、ただ一点、神の御子、イエス・キリストを信じることである。キリストを信じる者を、キリストを長子とする、「神の子」の一人と数えて下さる。私たちは、この測り知れない祝福、また幸いを果たして理解しているであろうか。創造主である神と、神によって造られた人間、この関係を見失ってはならない。無限にして永遠なる神と、有限で一時的な存在である人間は、全く隔てのある関係で、聖なるお方の前にあって、汚れた者、罪に走るのに早いのが人間である。

2、神と人との関係は、全く隔たっている。けれども、私たちが、神が遣わされた救い主、御子イエス・キリストを信じて受け入れると、神はその人々を神の子として下さる。義と認めた者を、子として、「神の子らのあらゆる特権に権利を持つもの」として下さるのである。(12〜13節)神の子とされることの特権は、奴隷の身分との比較により明らかとなる。子としての身分には、奴隷には与えられていない、財産の相続権が伴う。また親密な愛によって結ばれ、全幅の信頼が、根底を支えている。親が子に注ぐ愛には、ほとんど条件がなく、その愛は底なしと言える。神はそれ程の愛を注いで、イエス・キリストを信じる者を、子として受け入れて下さるのである。その愛の大きさや深さ、高さ、広さ、測り知れなさは、御子を遣わし、罪人の身代わりとして、御子が十字架で命を捨てることに現されていた。(ヨハネ第一3:1以下、4:9-11、ヨハネ15:13)その愛に触れる時、神の子とされた者は、神との関係で、絶対的信頼による安らぎを得ることができる。神に向かって、「父よ」と呼んで祈り、神の助けを待ち望んで生きる特権が与えられる。そして、子としての相続の究極は天の御国であり、御国を受け継ぐ幸いは、子とされる祝福のゴールとなるのである。

3、「子とされる祝福」において、私たちは、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」と言われることを、心に刻むことが大事である。「神によって生まれた」ことについては、実際には「養子とされる」ことである。「養子とされる」に当たって、「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって」という視点、神が「一方的な恵みによる決定」をしておられることを、心から感謝することが求められる。私たちが、養子を迎えるか、また養子として迎えられるかの手順を考えるなら、はっきりと分かることである。選ばれる側は、ほとんど無力であって、どんな規準で選ばれるのか、ほとんど分からない。結果として選ばれるのであって、良い選び手に巡り会えるか、それが、その後のことを左右する。神が、キリストにあって私たちを選び、信仰によって義とし、義と認めた者を子として下さる、その恵みと祝福は、とてつもなく大きな愛によることと、ただただ感謝するばかりではないだろうか。

<結び> 最後に覚えておきたいこと、それは、この神の決定が、決して変わらず、揺るがず、取り消されることはない点である。私たち人間の側には、子として相応しく生きることにおいて、果たして完全を目指せるのか・・・という課題がある。この地上を歩む時、信仰を保ち続ける保証はあるのか、と問われら、どのように答えることができるだろうか。私たち人間は、必ずのように揺らぐのであって、時に、反抗さえするかも知れない。けれども、神の完全な愛は、私たち人間の側が揺らいだとしても、決して揺るがず、変わらない。神は私たちを、子として受け止め、見守り、支えて下さる。一度、神の子として、神の子らの数に入れて下さったなら、その決定は変わらないことこそ、大いなる慰めである。天の御国に行くまで変わらず、永遠に子として扱って下さる。私たちは、こんなにも確かな恵みと祝福の中に入れられているのである。救いの恵みを割り引くことなく、また疎かにすることなく、日々、歩ませていただきたいものである。