神が、悔い改めと信仰へと呼び出して下さった者に、この世で分け与えて下
さる祝福は、「義認」、「子とすること」、そして「聖化」である。これらの祝福は神が一方的に注いで下さる恵みであり、私たち人間の側で、何かしら努力した結果の事柄ではない。その大切な事柄について、問答33から36まで、より丁寧な説明が続く。問33「義認とは、何ですか。」 答「義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受け入れてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され、信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです。」これは、プロテスタント宗教改革において、最も大事な教えである「信仰義認」ついての、より簡潔なまとめであり、理解である。
1、「信仰義認」については、ローマカトリック教会の修道士であったマルチン・ルターが、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙を通して、救いは行いにはよらず、信仰によると目が開かれたことから、一気に注目されたのであった。けれども、信仰によって義と認められるという理解は、紀元一世紀の初代教会においても、なかなか正しく理解されず、使徒パウロは、何度も繰り返し語っていた。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(3:28)「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた』とあります。・・・何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(4:2-5)
2、「その信仰が義とみなされる」との言い方は、一見、「信仰」そのものの善し悪しを云々するかのようである。明確な「信仰」、強い「信仰」に対して、ぼんやりした「信仰」があり、弱い「信仰」もあるかのように・・・。アブラハムの信仰はとても明確で、揺るがないものであったと、確かに評価されている。その信仰に倣う者となるよう、パウロは強く勧めている。(16節以下)「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。・・・その信仰は弱まりませんでした。・・・信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」(18〜22節)一番大事なこと、肝心なことは、アブラハムが神の約束を信じたことであった。その信じ方において、揺るがず、迷わず、信じ抜いたことを見ならうよう、そして、よみがえった主イエスを信じることにおいて、同じように、信じ抜く信仰によって義と認められると、パウロは心を込めて勧めている。「信仰」そのものの善し悪しより、何を信じたのか、誰を信じたのか、その点を強調していると思われる。
3、神によって、義と認められる祝福、その幸いは、「主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たち」に、確実に与えられる。主イエスは、イエスをキリストと信じる者のため、身代わりとなって十字架で死なれた。その死は罪の刑罰としての死であり、罪の赦しを与えるため、贖いの代価を支払うものであった。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(23〜25節)神ご自身の側で、罪に対する代価を支払い、神の義をいささかも割り引くことなく満たした上で、そのようにされた。イエスが十字架で死に、そして死からよみがえることによって、イエスこそキリストであることを明らかにし、そのキリストの義を信じる者に転嫁する、すなわち、一人一人に当てはめようとされたのである。神は、実に用意周到、神を信じる者を、その信仰によって義と認める祝福を与えて下さる。義と認められた者は、全ての罪を赦され、神の前に正しいとして受け入れられる。この「義認」は一度限りの宣告であり、覆されることのない判決である。この祝福に与った者は、最早、自分の罪や愚かさを嘆くことから、解き放たれている。正しく「義認とは、神の一方的な恵みによる決定です。」
<結び> 私たちが、十字架で身代わりとなって死なれた主イエスを、私の救い主キリストであると信じる時、その信仰によって、私たちは義と認められる。キリストの義を着せていただくことになる。これが「義認」であり、「神の一方的な恵みによる決定」である。キリストの十字架の贖いが、完全な代価の支払いであったので、私たちキリストにある者が、「罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)と言われることを、忘れないようにしたい。それとともに、義と認められた者として、神の義に相応しく生きることを、前に向かって、いよいよ熱心に祈り求めることを導かれたい。信仰の実としての行いが、確かに求められているからである。救われるために行いは求められてはいない。けれども、救われた者が良い行いの実を結ぶのか、神がそのことを期待しておられるのは明らかである。(エペソ2:8-10)信仰によって義と認められる祝福を感謝し、神の御栄光のために生きる者と、日々に整えていただきたいと心から願うものである。
※1517年10月31日:マルチン・ルターが、ウィテンベルクの城教会の扉に「95 個条の提題」を張出し、ローマカトリック教会に対して、公開討論を求めた。 これがプロテスタント宗教改革の始まりとされている。
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