礼拝説教要旨(2013.10.20) =伝道集会U=
あなたはきょう、パラダイスにいます
(ルカ 23:32〜43)

 「いつでも、どこにでも〜共におられる神〜」をテーマにした伝道集会の二日目、今朝の聖書個所は、主イエス・キリストの十字架の場面、それも苦しみの極みの中に、三本の十字架が立てられていた場面である。二人の犯罪人の内の一人は、その命の最期を迎えていた時、主イエスから「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」という、最高の慰めの言葉をいただいた。苦しみ悶えていたが、彼の心は、満ち足りる平安に包まれたに違いなかった。私たちは、自分の命の終わりを迎える時、果たしてどのような心で、その日を迎えるのだろうか。もしできることなら、本気で、今から心備えをしたいと思うことはないか。そんなことを思いながら、キリストの両側には、二人の犯罪人が同じように十字架につけられていたことに、しっかり目を留めたいのである。

1、主イエスには、死に値する罪はないと、ローマの総督ピラトは、はっきりと確信していた。そして何度も、イエスを釈放しようとしていた。それにも拘わらず、「十字架だ。十字架だ」との群衆の叫びが勝ち、遂にイエスは十字架につけられるため、「どくろ:ゴルゴタ」と呼ばれる所に、引かれて行った。そして犯罪人の一人として十字架につけられた。その両側には、れっきとした犯罪人が、彼ら自身の罪の報いとして、十字架につけられていた。朝の9時頃のことであった。民衆の嘲りが飛び交う中で、主イエスは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と、そんな祈りをささげておられた。自分に敵対する者、害を加えている者のために、とりなしておられたのである。民衆だけでなく、兵士たちも加わり、「自分を救ってみろ」と嘲っていた。(32〜38節)その嘲りに二人の犯罪人も加わり、「自分と私たちを救え」と叫んでいた。(※マタイ27:44)けれども、主イエスは痛みと苦しみを耐え続け、決して十字架から降りることなく、自分を救おうとはされなかった。自分の罪の故でなく、罪ある者の身代わりとなって、十字架につけられていたからである。

2、朝の9時から昼の12時になるまでの間、十字架を取り巻く人々は、どんな思いでいたのだろうか。嘲り、ののしることを止めない人々、始めの内は嘲っていても、その勢いが鈍った人もいたのではないだろうか。犯罪人として十字架につけられていた二人の様子に、少しずつ違いが表れていた。一人はイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言い続けたのに対して、もう一人は、それをたしなめるように変わっていた。彼は「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と、自分たちの有罪を認め、イエスの無罪を確信するまでになっていた。(39〜41節)彼は同じように十字架につけられているイエスについて、自分たちと何が違うかを知った。その違いが分かった時、ためらうことなく、この方にすがろう、この方に任せようと心を決めた。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼は、ようやく声を絞り出すようにして、イエスを神と認め、その神に身を任せる信仰を言い表したのである。(42節)

3、「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(43節)「あなたのことは、わたしが確かに引き受けました。あなたはきょう、わたしとともに、間違いなく天の御国にいるので、安心しなさい。」主イエスは、慰めの言葉を語っておられたのである。死の苦しみ、そして死の恐怖は、死後のことについては、何も知らないことから来るのが大半であろう。それとともに、生きている間の行状について、当然の報いが待っていることを、誰しもが直感するからではないだろうか。実際に全ての人が、自分の人生について、必ず裁かれることを知っているのではないだろうか。誰しもが、自分を振り返り、自分で自分を問うことを、小さい子どもの時から、幾度も繰り返しながら大人になり、また大人になってからも、折に触れて自己点検、自己吟味しているのではないか。もちろん個人差があるので、自省することを度々しながらの人もいれば、ほとんど素通りの人もいる・・・というのが現実かもしれない。この主イエスの十字架の場面は、人がどれだけ無頓着でいても、最後には必ず、自分の生き方を問われる時のあることを暗示している。その場になっても、決して気づかない人がいること、気づいて神に立ち返る人がいること、そんな二つに一つの、決定的な違いのあることを教えてくれるのである。

<結び> この主イエスの十字架の場面は、もう一つのこと、全ての人の生涯において、息を引き取る最後の最後まで、神に立ち返る道が備えられていることを教えてくれる。それは自分の死について、罪の報いであることを悟ること、そして、主イエスの十字架は、罪なくしての死であり、そのようにして死なれる方は神であると知ること、更には、自分をそのお方に委ねることなど、イエス・キリストを信じる信仰の中身を明らかにしてくれている。最後であっても、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」との慰めの言葉は、その人にとって、絶対的に必要な慰めである。そして、その絶対的な慰めについては、一人一人の人生において、いつでも、どこででも、主イエスを救い主キリストと信じる人に、確実に約束されるものなのである。すなわち、イエスを神と信じて、このお方に自分をお任せすると心に決める人は、いつ、どこで、どんな状況に追い込まれていたとしても、必ず「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と、主イエスからの慰めの言葉、魂の救いの約束をいただくことになる。その時最早、何があっても恐れることのない、心の安らぎ、魂の平安をいただくのである。

 この救いをいただき、神が共におられる幸いな日々を、感謝と喜びをもって歩ませていただこうではないか。弱さがあり、恐れのある愚かな者であっても、神を信じ、キリストにあって、心を強くされて生きることができるのである。神が共におられる幸いを証ししつつ、天の御国を仰いで共に歩む方が起こされること、一層増し加えられることを心から願っている。