説教要旨(2013.10.19)伝道集会1
あなたの行く所 どこにでも
(ヨシュア記 1:1〜9)

 今年は、「いつでも、どこにでも〜共におられる神〜」をテーマに、二日間の伝道集会開催となった。心の耳を澄まして、聖書に親しむことが導かれるよう願っている。聖書はいつの時代にあっても、私たちに、生きる道を示してくれるからである。昨年も覚えたことであるが、今のこの時代、多くの人が行く先を見失い、不安に押し潰されそうになっている。それでも、何とか必死に生きている、そんな様子を見せているのは、一年経ってもほとんど変わりがない。世界中が経済的に行き詰まって、なかなか見通しが立たずに混乱している。ところが、この日本は政権交代して後、やや好転していると錯覚したかのように、一部の人たちが浮かれている様子である。今また、目の前の生活が良ければ、それで良しとするのだろうか。私たちは、本当に大切なことこそ、見出すべきではないか。どんな時代になっても決して変わらない、その大切なことを、聖書の中に探ってみたいのである。

1、今日の聖書箇所は、いきなり「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた」と、偉大な指導者の死に直面した、悲しみの中でのことである。神の民イスラエルをエジプトの国から導き出す、とてつもない大役を担ったモーセが、40年に渡って責任を果たし、その後を担うことになったヨシュアが、務めの重さをひしひしと感じていた時である。ヨシュアでなくても、これからどのようにしたらよいのか、大いに戸惑い、恐れと不安に包まれる状況である。主なる神は、そのヨシュアの心の中を見通すように、励ましの言葉を語っておられた。初めの約束は変わっていないことを明言し、勇気をもって前進しなさい・・・と。「・・・あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、見捨てない。・・・」(1〜6節)

 神の励ましは、ヨシュアの置かれた状況を、全て知った上でのもの、これまでのことも、今のことも、これからのことも分かった上で語られていた。全てを支配しておられる神が、「あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、見捨てない」と、力強く約束された。これほどに確かな励ましは他にない。全知にして全能なるお方が、「あなたとともにいよう」と。そして神はヨシュアに、ご自身の教えに聞き従うことを求められた。彼は神に服従することを求められたが、それは決して難しいことではなく、これまで歩んで来たように、これからも歩めば良かったのである。(7〜8節)

 2、最後にもう一度、「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」と、どこに行っても、共にいることの約束を繰り返された。(9節)念には念を入れての約束である。ヨシュアならずとも、その置かれた状況が、恐れと不安に押しつぶされそうな時、人は、何を頼りとするだろうか。どんな場合でも、「孤独」に耐えることは容易でない。誰かが傍にいてくれるかどうか、その差は甚だ大きい。ヨシュアの場合、指導者としの「孤独」があって、ただ誰かがいてくれれば良い・・・というわけにはいかなかった。目には見えずとも、ヨシュアが信じている真の神が共におられること、それは何ものにも勝る力であり、助けとなることであった。神が共にいまして、行く道を守って下さる幸い、それは神を信じる者にとっての、最高の幸せである。

この幸いが最高の幸いである理由は、共におられる神が、全知にして全能であること、また無限にして、永遠、不変な方であることなどによる。人間は有限であり、変わり易く、移ろう存在である。ある時は力強くても、その力は永続しない。必ず衰え、やがて消え去る。しかし神は、永遠から永遠にいますお方、約束を完全に果たされるお方である。人間の側で忘れていても、神の約束は不変であるので、神に守られる人の幸いは揺るがない。ヨシュアはその幸いを信じて、立ち上がり、前進することができた。私たちも、ヨシュアと同じように、神が共におられる幸いを経験させていただける。神の約束の言葉を信じること、その約束に頼ること、その信仰がカギを握っている。

3、ところで私たちは、自分の人生において、神に守られたこと、あるいは神が共におられて助けられたこと、そのような事実にどれだけ気づいているのだろうか。普段は、ほとんど気づかないまま過ぎていることが多い。けれども、振り返ってみると、あの時のこと、この時のことと、いつでも神は共にいて下さり、いろいろな仕方で助け、支えて下さったと思い返すことができる。私の場合、自分の記憶のあることを辿ると、実に神のみ手が働き、必要を備えて、確かな導きをもって、今に至っていることが分かる。そのことが分かると、自分の記憶のない頃のことも、神が共おられて、全てを支配していて下さったと、心から感謝するように導かれる。(※上海〜大阪の浜寺、浜寺〜東京の久我山、久我山〜所沢)この所沢聖書教会で奉仕するようになって43年目である。住み始めてから41年となる。モーセの時代の荒野の40年を超えている。今更のように、神が、いつでも、どこにでも、共におられることをしっかりと心に刻みたいと願っている。

 私の場合、生まれた時、生きるか死ぬかの境目にあったことを、母から聞かされたことを始め、上海からの引き揚げ後、一歳二か月で肺炎になったこと、海で溺れかけたことの他、病弱であったことで、幼少期に死を意識することが多かったと記憶している。そのような時期に、神は私を教会に行くように、周りの環境を整えて下さっていた。福音に触れる機会を備えて下さったのである。しかも、純粋な福音に触れるように配慮された。これは驚くべきことである。(既にあった幼稚園ではなく、新しく始まる幼稚園に行くように・・・)それに加えて、大阪から東京への引っ越しは、一体何の意味があったのか、不思議中の不思議であるが、主に仕える備えのため、ただ楽しいだけの教会生活をしないよう、訓練を受けさせて下さったかのようである。(大阪では、教会は楽しい所であったものの、東京に来てからは、楽しいと思えず、心痛むことが多かった。)その中で、十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主、イエス・キリストをはっきりと信じるように導かれた。キリストを信じることによって、一層、神が、どこにあっても共におられると感謝する信仰へと導かれたのである。

結び  「神がおられるなら、なぜ私たち人間に不意に不幸が襲ったり、人の命が理不尽に奪われるのか、その答えが欲しいものだ」と、多くの人が言う。災害で命が失われる時、また戦争が絶えない時、「神は天において、見ておられるだけなのか」と、嘆き叫ぶ声も聞かれる。しかし、真の神は、上から見下ろしておられる方ではない。救い主を遣わして、私たち人間の傍にまで近づいて下さった方である。クリスマスの出来事は、正しく神が人となってお生まれになった出来事である。幼子イエスは、「インマヌエル=神は私たちとともにおられる」と呼ばれる方、人の近くに来られ、人と共に歩んで下さるお方である。30歳頃から、公の伝道の生涯を歩まれた時、悩み苦しむ人々に近づき、病の人を癒し、心痛む人々の友として歩み抜かれた。そして、罪人の罪を赦すために十字架に架かり、贖いの死を遂げられた。けれども、十字架で死なれたイエスは、三日目によみがえり、自らが永遠のいのちの保障となられた。やがて天に昇られた主イエス・キリストは、聖霊を遣わして、キリストを信じる者に、いつでも、どこにでも、変わることなく共にいるとの約束を果たされるのである。「あなたの行く所どこにでも、あなたのともにあるからです」との神の約束は、今日、私たちのためにも、変わることなく実現しているのである。神を信じ、救い主キリストを信じる信仰に生かしていただこうではないか。神が、いつでも、どんな所でも、共にいて支えて下さることを信じて!!

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)