罪の中に死んでいた私たちは、「有効召命」と言われる聖霊なる神の御業によって、「自分の罪と悲惨とを自覚させ」られ、更に私たちの心は、「キリストを知る知識に明るく」させられ、「意志を新しく」されることによって、キリストを「あがない主」と信じ、受け入れるように導かれた。このようにして、私たちの信仰は始まり、キリストに従う神の民として、確かな歩みを始めたことになる。そのような私たちは、この世で、どんな祝福が約束されているのか、問と答が続く。問32「有効召命されている者は、この世で、どんな祝福を分け与えられますか。」答「有効召命されている者は、この世で、義認、子とされること、聖化、この世でそれらに伴い、あるいはそれらから流れ出るいくつもの祝福を分け与えられます。」「義認」「子とすること」、そして「聖化」は、私たちがこの世で受ける祝福であるが、目には見えない霊的な祝福であることを見落としてはならない。
1、神が、信仰へと導かれた者、すなわち「有効召命されている者」に、この世で受ける祝福として約束されている祝福のは、「義認=義とすること」、「子とすること」、そして「聖化=聖とすること」である。これらの祝福は、神が一方的に注いで下さるものであって、私たち人間の側で、何かしら努力した結果の事柄ではない。「義認」は、問33とその答で明らかにされるように、「神の一方的恵みによる決定」である。そのことは、問答34の「子とされること」においても同様であり、問答35の「聖化」においても同じである。キリストが十字架の上で、私たちの身代わりとなって死なれたことは、私たちの罪に対する刑罰を、代わりに受けて下さったことであり、私たちが最早、罪に定められることはないという、全き救いが約束されるのである。罪の赦しは完全で、「義認」によって、一点の曇りもないものである。キリストの正しさ、キリストの義が、信じる私たちに「転嫁」されたからである。(21〜26節)
2、「子とされること」も、「神の一方的恵みによる決定」とはっきりと言われている。父なる神が、キリストを介して、私たちを子として下さるのであって、全く遠く離れていた者が、子としての身分を与えられ、子として受ける特権に与らせていただくのである。奴隷の身分と、子としての身分の違いを考えるなら、その身分の変化の甚だしさを思うことができる。相続における法律の定めを考えるとよく分かる。子であるか、そうでないかの差は、全く越えられないものである。神が、私たちを「子」として下さる恵みは、正しく「一方的な恵みによる決定」である。(エペソ1:5)ただただ感謝するほかのない、溢るるばかりの恵みである。そして「聖化」も、神が私たちのため、一方的な恵みを注いで成して下さる御業、そのものである。私たちは、自分の生まれながらの罪、そしてその汚れを、果たしてどれだけ自覚しているかを問われる。自分の罪深さ、その汚れを、自分で克服することは全く不可能である。神によって新しくされる、その神の御業なしには、私たちは決して「聖」とされることはない。けれども、神は私たちを、キリストにあって新しくし、キリストにあって、「ますます罪に死に義に生きることができる」よう導いて下さるのである。(コリント第一1:30)私たちは、「神の一方的な恵みにより」、確かに造り変えられ、整えられるという、不思議な経験をさせられ、救いの完成を待ち望むよう導かれる。この世で、神の民、キリストに従う者として歩ませていただくことは、神の恵みの御業によって支えられる、真に幸いなことなのである。
3、ところで、義認、子とすること、そして聖化について、この世で分け与えられる祝福と言われている。他のほとんどの宗教が、この世の祝福について説く「現世利益」と、どのように違うものなのだろうか。キリスト教会にあっても、紙一重で、この世での幸いを追い求めたり、目に見える「御利益」を、神からの祝福と取り違える誤りを犯す、危うい誘惑がある。この世で繁栄することや、自分にとっての幸いのみを追求すると、それは大きな罠に陥るからである。クリスチャン新聞に、あるシンポジウムで一人の社会学者が、「プロテスタントは御利益を求めているようで好感がもてない・・・」という趣旨の発言をしたとの記事が載り、一瞬ドキッとした。もし福音をそのように説いているとしたら、それは大きな間違いを犯している。具体的には、「千年王国の祝福」などについて、それを喜んでいる姿が、「現世利益」を求めているとの指摘であったが、私たちの信仰の理解はどうであろうか。この世で祝福を受けるとしても、義認、子とすること、聖化という恵みは、霊的な祝福であって、目には見えなくても、神が確かに注いで下さる特別の恵みであることを、心から感謝したいものである。
<結び> これらの祝福に伴い、また、それから流れ出るいくつもの祝福があることが告げられている。それらについて、問答36において、「神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終わりまで恵みのうちに堅忍することです」と言われている。私たちが、神を信じ、神の愛を疑うことなく喜び、感謝に溢れて生きることができるのは、神が注いで下さる祝福の故である。心に平安が満ちるのも、そして日々喜びをもって生活できるのも、更には、日々恵みを注いで下さることに気づきながら、終わりの日まで信仰に生き抜けるのは、神がしっかりと捉え、支えて下さるからである。どんなに自分の力に頼ろうとしても、私たちの弱さと愚かさは、すぐに行き詰まりを見せる。神が手を差し伸べて下さっているので、私たちの地上の日々は確かであること、その幸いに、目を留めようではないか。そして、神の前で、自分の歩みを振り返りつつ、今週も前に向かって歩ませていただこうではないか。
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