「キリストが手に入れたあがない」は、聖霊なる神が、「私たちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつける」ことによって、私たち一人一人に、相応しく当てはめられる。これが、キリストにある救いの確かさである。恵みによる救いであり、救いは神からの賜物として与えられる。問31「有効召命とは、何ですか。」答「有効召命とは、神の御霊の御業です。これによって御霊は、私たちに自分の罪と悲惨とを自覚させ・私たちの心をキリストを知る知識に明るくし・私たちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受けいれるように説得し、受けいれさせてくださるのです。」私たち人間、すなわち罪の中に死んでいた者が、福音を聞いて心を開くのは、聖霊なる神が、終始働いておられることによるのである。
1、神の働きかけ、すなわち「有効召命」と言われる聖霊の御業によって、私たち人間は、「自分の罪と悲惨とを自覚させ」られる。言い換えれば、神の働きかけなしに、人は自分の罪と悲惨に気づくことはない、ということである。最初の人アダムにおいて堕落した人間は、罪の中に死んだ者、自分ではそこから抜け出すことのできない存在である。神が呼び出して下さったとしても、死んでいるので、応答することはできない。それなのに、神の呼び出しに応えられるようになるのは、先ず神の側で、私たち人間を、新しいいのちに生かして下さるからである。そのいのちにより、自分の罪と悲惨に気づかされる、その一歩が始まるのである。人が、神の前に罪があると自覚するのは、決して易しいことではない。まして、その悲惨に気づくこと、更に自分に絶望するなど、なかなか有り得ない。生まれながらのままでは、自分を誇り、他の人と比べながら、自分の良さを数えるからである。自分の罪を自覚し、そのままでいると、滅びを免れないという悲惨に目が開かれるのは、聖霊の御業である。ペンテコステの日、ペテロが語る言葉を聞いて、心を刺された人々は、聖霊によって、悔い改めと信仰へと導かれていたのである。(37節以下)
2、このようにして、自分の行く末の悲惨に気づかされた者の心を、聖霊は、一層、御言葉を通して照らして下さる。聖書により、私たちはキリストを知るよう導かれ、より深くキリストを知るよう、より親しくキリストに拠り頼むようにと導かれる。罪によって暗く閉ざされた私たちの心は、聖霊によってのみ、光であるキリストの元へと導き出され、そして、キリストの愛に触れ、キリストをいよいよ知って、その愛に応えたいと、信仰が増し加えられる。そのようにして、私たちの心は耕され、私たちの意志は新しくされ、新しいいのちに生きることを、はっきりと選び取るまでに整えられる。私たち自身では、どこまで自覚しているか、必ずしも気づき得ない所で、聖霊は、私たちを説得し、キリストを受け入れさせて下さっていること、これが「有効召命」と言われる、聖霊の御業である。確かに、私たち人間の側で、意志を働かせて考え、決意し、行動する。この時も、聖霊が働いて、私たちの意志を罪から解き放って自由にし、神の御意志にそって歩もう、生きて行きたいと願うよう、神は道を備えて下さっているのである。(※使徒26:18)
3、「福音において一方的に提供されるイエス・キリストを私たちが受けいれるように説得し、受けいれさせてくださるのです。」私たち人間の側の意志の自由は、果たして制限されるのだろうか。罪の中に死んでいることは、神の働きかけが先行することなしに、私たちは罪を犯し続け、神に対しての不従順以外、何も成し得ないことを意味している。けれども、聖霊の説得や信仰への促しは、決して強制するものでなく、自発的な応答を導くものである。私たちは、聖霊に導かれて罪を退け、キリストを愛する者にと変えられる。そのようにして生まれ変わること、新生させられることの恵みをもたらすのが、「有効召命」であり、「神の御霊の御業」そのものなのである。私たち人間は、神の御業である、罪と悲惨からの救いにおいて、自力によって成し得ることはない。パウロが、「これは、神の前でだれをも誇らせないためです」と語ること、また「まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」と語るのは、その真理を明らかにしたいからである。(コリント第一1:29-31、エペソ2:8-9)この救いの始まりを、心から感謝することによって、私たちの信仰の在り方が定まる。小教理問答を通じて、そのことを改めて気づかされる。
<結び> 「有効召命」について、また「新生」について、ともすると誤解されることがある。聖霊なる神が成して下さる御業を、私たち人間が体験するにあたり、何か自分に分かる、証拠となるしるしを求めることについてである。しばしば多くの人が、特別な体験や、情緒的または感情的な体験を、神の御業の証拠として探すことを、当然のように始める。しかし、その人その人に相応しく、神が手を差し伸べて救いへと導いて下さるので、特別の体験のある場合もあり、また特別なことがない場合もある。その違いがあっても、聖霊なる神の御業は、必ず悔い改めと信仰に現れる。何よりも、今救いを喜び、感謝をもって、心を低くして歩むこと、そのことを大事にすべきである。また、自分には、神が手を差し伸べておられないのでは・・・と嘆くことも、注意が必要となる。時に、なかなか信じられず、心を痛める人がいるからである。けれども、神の御業は完全である。「悔い改めなさい」と勧め、また、「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われる主イエス・キリストは、その語りかけを聞いた者が、一歩を踏み出すのを忍耐して待っておられる。私たち一人一人は、神の救いの御業が、この私の上に実現することを祈り求めるのはもちろん、また既に実現していることを心から感謝し、神を誉め称える歩みが、今週も導かれることを心から祈りたい。主なる神こそ、誉め称えられるべきお方だからである。
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