礼拝説教要旨(2013.09.29)ウェストミンスター小教理問答30
私たちの中に信仰を働かせ
(エペソ 2:1~10)

 「キリストが手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。」これが、問29の答であった。聖霊が働いて、「あがない」は、私たちに確実に当てはめられる。罪の中に沈んでいた私たちが、キリストの救いへと導き入れられ、神の元に立ち返るのは、全くの恵みであり、神が成して下さる奇蹟そのものである。救いに関して、私たちは全く無能力だからである。問30「御霊は、キリストの手に入れたあがないを、どのようにして私たちに当てはめてくださるのですか。」答「御霊が、キリストの手に入れたあがないを私たちに当てはめてくださるのは、私たちの中に信仰を働かせ、それによって私たちを有効召命においてキリストに結びつけることによってです。」「御霊」すなわち「聖霊なる神」が、一にも二にも私たちを捉え、私たちを、信仰から信仰へと進ませて下さるのである。

1、神の救いのご計画は、確かに神ご自身の側で成し遂げられる側面と、私たち人間の側で果たさなければならない側面がある。人の側での大切なことは、「信じること」であり、「信仰」そのものが問われる。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるます」と語られている。(テモテ第一2:4)「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」と言われる。(コリント第一1:21)そして「・・・聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。・・・」と、キリストの福音を宣べ伝えることの大切さが、熱く語られる。主イエスご自身、弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・」(マタイ28:19)と命じておられた。全世界の人々に、福音を宣べ伝えること、その尊い務めを弟子たちに託されたのである。その福音を聞いた人々は、どのように反応したのか、この問答30が明らかにするのは、そのことである。

2、ペンテコステの日、ペテロの説教を聞いて心を刺された人々は、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と、使徒たちに尋ねていた。その日、ペテロの「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。・・・」との勧めに従って、弟子に加わったのは三千人ほどに上った。けれども、その三千人をはるかに超える人々が、その光景を訝しんでいた。ペテロの説教を聞いても心を動かされることはなく、福音を聞いても信じない人々が、そこにいたのも事実である。受け入れる人がいる一方で、決して受け入れない人がいる。これは、何を意味するのだろうか。語られる福音が問題なのか、それとも語り方が問題なのか。福音の中味か、それとも語り手なのか、それに悩まされる。しかし、語り手も聞き手も、実際のところ、あまり問題ではない。聖霊が、福音を聞いた人の中に、信仰を働かせ、更に有効に呼び出し、キリストに結びつけて下さること、この聖霊の働きによって、人は悔い改めと信仰へと導かれるのである。「有効召命」と言われること、確実に呼び出され、キリストに間違いなく結びつけられることがあって、罪人は救いへと向かわせていただける。それ故に、救いに関しては、誰も自分を誇ることはできないのである。

3、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(3節)全ての人が、例外なく罪の中に沈んでいること、罪ゆえの心の鈍さは、誰もが救いから遠く、心を閉ざしていることを意味している。神が、罪の中に沈んだ者を、なお愛して、あわれみを注いで下さり、キリストにあって生かそうとして下さったので、そこで初めて救いの道が開かれる。神は、聖霊の働きによって、ご自身の民の心を開き、神を信じる信仰を起こしておられるのである。そのようにして、福音を受け入れる人が起こされ、その人は、確実に救いの信仰へと進むことができる。その人自身、最初は福音を聞いても、罪の中に死んでいたので、他の人と同じようにバカバカしく思うだけで、全く信じられないのである。けれども、聖霊が、その人の中に信仰を働かせて下さり、その人を有効召命によってキリストに結びつけて下さることによって、その人は新しいいのちに生きることになり、罪を悔い改め、キリストを信じる者に変えられるのである。これこそが、「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」と言われる、神の救いの御業である。(8節)

<結び> 神ご自身が、私たちの内に働きかけて下さること、この確かなことがない限り、私たちは罪の中に留まっている。必ず聖霊が働いて、私たちは生まれ変わることができる。ところが、私はその恵み与ったものの、あの人はまだ・・・と、そのように思うことがある。或いは、私が信じられないのは、聖霊が私に働いて下さらないからか、と思うかもしれない。けれども、神ご自身の働きかけ、また聖霊の働きは、一人一人に相応しく、必ず届くものである。福音を聞いて、また聖書の教えに心の耳を傾け続ける時、その人は神の存在と、その神の前での自分の罪深さを、必ず知るように導かれる。そして、キリストが十字架で死なれたのは、自分の身代わりであったことを悟るようになる。やがて、罪を自覚し、悔い改めて、イエス・キリストを信じる信仰へと進むよう導かれる。このようにして、私たち、キリストを信じる者は、神に導かれて信仰の道を歩ませていただいている。このような救いは、神からの賜物であり、真に感謝すべきものである。この救いの理解こそ、私たちの信仰の根幹そのもので、神にのみ栄光を帰るべきことなのである。