キリストは「あがない主」として、十字架の上で、ご自身のいのちを贖いの代価として支払われた。罪ある者の身代わりとなって死なれたのである。では、その身代わりとなった人々に、その確かな救いをどのようにして届けるのか。問29「キリストが手に入れたあがないは、どのようにして私たちに分け与えられますか。」答「キリストが手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。」私たちが信じている聖書の神は、「三位一体の神」である。父なる神が、罪人の救いのために、子なる神、キリストを遣わされた。御子なる神キリストは、十字架でいのちを捨て、贖いの代価を払って、御子を信じるご自身の民のため、「あがない」を手に入れられた。その「あがない」、すなわち、罪人を滅びからいのちへと救う恵みを、聖霊なる神が、私たちに当てはめて下さるのである。
1、この第29問答を理解する上で、私たちは、私たち人間の罪がどれだけ根深くて、自力では到底救いへと向かうことのない心の頑なさを、今一度思い返すことがカギとなる。神のかたちとして造られている事実は尊く、揺るがないとしても、神を求めることや、神の御心に叶って生きようとすることには、全的に無能力なのである。全ての人が神に背を向けて、自分を神とするかのように自分を誇り、自分を頼りにして生きている。時に迷い、また苦しみ、生き甲斐を求めて、真剣に「真理」を探ることがある。けれども、本当の意味で答は見出せず、尚も混沌の中でもがくのである。「キリストの手に入れたあがないが、私たちに分け与えられるのは、キリストの聖霊がそれを私たちに有効に当てはめてくださることによってです。」聖霊の働きによってのみ、救いの恵みは私たちに適用される。(5〜6節)これ以外に、救いの道は開かれない。しかし、この事実さえ、私たち人間には理解し難いことである。
2、それは、救いに関しては「全的に無能力である」、という理解についてである。新約聖書の時代から今日に至るまで、キリスト教会の歴史において、救いに関して、行いがどのように関わっているのか、繰り返し問題が提起される。使徒パウロは、何度も何度も、口を酸っぱくするように語っている。救いは行いによらず、信仰によることと。以後、必ずのように、超自然的なことと自然的なことが衝突して、奇蹟を信じるのか否か、救いは神から来るのか、それとも人の力も大事なのかと、論争が繰り返されている。教会の歴史を通じて、救いにおける超自然的な側面を、そのまま受け止め、大切にして歩んで来た系譜は、パウロ、アウグスチヌス、ルター、カルバンと言われる。16世紀の宗教改革は、聖書に帰る意味でとても大切な運動であった。その後も様々な論争を経て、500年近くが経過している今日、やはり救いの理解は、私たちの信仰の根幹である。聖霊によって新しいいのちに生かされる恵み、この救いの第一歩とも言うべき出来事は、聖霊の働きそのものであって、百パーセント神の御業であることを、私たち人間はただ感謝する他ないのである。
3、「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」「新生と更新との洗い」と二つのことが言われているが、聖霊による「新生」または「再生」と言われる恵みについて、それが何時起こったのか分からない面と、洗礼という水による儀式において目に見えて分かる面を、同時に言い表わそうとしたものと思われる。聖霊が働いて新たないのちに生きるのは、人の力や決断の及ばないこと、神がそのことを始められることである。それ故に、人の側では、救いのためには、神に全く依存していることを認めなければならない。もし人間の側で、「私たちが行った義のわざ」と言うべきものがあるとすれば、それらは救いに与った後に、「良いわざ」として実を結ぶことであって、それらもまた、聖霊が働いて、私たちを導いて下さることに他ならない。全てのことが、神によって成し遂げられていることを知る時、私たちは、ただ神にのみ栄光を帰すことができるのである。(ローマ11:36)
<結び> 「新生」の恵みについて、私たちの心に刻まれている聖書個所は、主イエスがニコデモに語られた場面であろう。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3以下)主は、「御霊」すなわち「聖霊」よって、新しいいのちに生きる必要を語られた。そして、「御霊によって生まれる者」の歩みは、必ず明らかになると語られた。(3:8) 聖霊が働く時、その働きは確実で、「あがない」の適用は、全く有効に成されるのである。問答30は、その確かさについて、一層明確にしてくれる。私たちが心して、自分の救いについて理解すべきこと、それは、神が救いの道を備え、私たちをそこに導き入れて下さったことである。確かに自分で決断し、信じて歩み始めた事実があるとしても、その初めの一歩は、聖霊によることであったと知って、心から感謝したい。この救いを、完成に至らせて下さるのは神である。神に頼ることの幸いは、ここにこそある。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネ黙示録3:20) 信仰の決心を勧めるにあたって、戸を開くのは、「あなた自身」と強調される。そうかもしれない。しかし、開くようになるには、聖霊の働きが先ずあってのこと、それが「新生」の恵みである。罪ある者が心を開くのは、聖霊が働かれることによる。これなしには、罪人が、心を開くことはない。それ程に人は頑なである。けれども、聖霊によって心を解きほぐされ、新たないのちが宿る時、心の戸を開いて、キリストを心に迎えることになるのである。私たちはそのようにして、今、信仰の道を歩ませていただいている。何と感謝なことであろうか。
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