礼拝説教要旨(2013.09.15)ウェストミンスター小教理問答28
キリストの高挙
(エペソ 1:20〜21)

 「あがない主」キリストは、「預言者」「祭司」「王」として、御自身の民を滅びからいのちへと救い、やがて天の御国での救いの完成に至るまで、民を守り導いて下さるという、尊い職務を果たしておられる。その働きは、「へり下りと高挙とのどちらの状態においても」果たされている。問答27に続いて、問答28は、「高挙」について答える。問28「キリストの高挙は、どの点にありますか。」答「キリストの高挙は、次の点にあります。キリストが三日目に死人の中からよみがえられたこと、天に昇られたこと、父なる神の右に座しておられること、終わりの日に世をさばくためにこられることです。」キリストは、いと低くなり、人となって、十字架の上で身代わりの死を遂げられた。そして墓に葬られ、「しばらく死の力のもとに留まられた」のである。けれども、肝心なのは、死んだ後、そのまま終りではなかったという事実であった。

1、「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)聖霊が下ったペンテコステの日、ペテロが人々に力強く語ったのは、キリストの「復活」のこと、死からのよみがえりの事実であった。それは、弟子たち自身も信じられない出来事であった。けれども、よみがえった主イエスにお会いし、キリストの復活について、旧約聖書が繰り返し語る預言が、ものの見事に成就したことを知らされた。彼らは、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」と、恐れなく証言し始めた。その証言は、天に昇られたこと、神の右の座に着かれたこと、そして、終わりの日に世をさばくために来られることに及んだ。(使徒2:32-36、10:42、17:31)キリストは、確かに死なれたが、その死からよみがえり、信じる人々にいのちを約束し、揺るぎのない救いを明らかにされた。弟子たちの一人一人、驚きをもって、復活の証人として歩んだのである。(20〜21節)

2、キリストは、最後の晩餐の席で、父なる神に祈っておられた。「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)十字架の死を前に、やがて高く挙げられることを確信しておられた。その上で、十字架の苦しみを耐え、父から見捨てられる悲惨の極みを味わわれた。そのようにして父のみこころに従い通し、罪の代価を払って下さったのである。もし、その死で、全てが終わっていたならば、弟子たちの中で、一人として立ち上がる者はいなかったに違いない。それほどに、よみがえりの事実は重大な意味を持っていた。死の力を打ち破って、永遠のいのちの希望をはっきりと見させて下さったのである。その後、天に昇り、弟子たちの目の前からは去って行かれたが、私たちにも目を天に上げることを、そして、天の御国においては、神の右の座にキリストが着いておられることを、はっきりと教えて下さっている。キリストが父なる神の前で、私たちのためにとりなして下さるとは、何と幸いで力強いことか。何ものにも代え難い平安を、私たちはいただくのである。

3、キリストの復活、よみがえりは奇蹟中の奇蹟と言われる。決して死を克服できない人間にとって、最も信じ難い事柄である。教会でさえ、信じられなければ、無理して信じなくてもよい・・・と、奇蹟の理解については、妥協を進めることも見られる。しかし、聖書が告げ、世々の教会が命を懸けて守ってきたもの、それはキリストの復活である。弟子たちは、復活の証人として生き抜き、多くの者が殉教の死を遂げた。高く挙げられたキリストを仰ぎ見て、生涯を全うした。復活の事実があったので、彼らの生き方は定まった。そして、彼らの望みは、キリストは必ず、世を裁くため、真の王として再び来られることにあった。その日、神の正義が実現し、真の平和が実現することを、心から信じたのである。新しい天と地が到来して、救いが完成するとの望みに生きることができた。あがない主キリストがへり下って下さったことは、私たちにとっても、ただ感謝するばかりのことであるが、高く挙げられたことは、そのことがあって、この方こそ信ずべき方、高きにいます方こそ真の救い主であり、拠り頼むお方との、私たちの信仰の根幹そのものである。死で終わらず、よみがえられたキリストこそ、ほむべきかな!!(コリント第一15:1以下)

<結び> キリストの高挙の、先ず第一のこと、死人の中からよみがえられたこと、この「復活」が信じられたなら、聖書の中のほとんど全てを信じられるようになる・・・と、よく言われる。無理矢理信じるのではなく、ある日、不思議にも信じられようになったと、そのように証しする方がおられるのも事実である。かく言う私自身は、不思議なほど、疑問なく信じた。聖書にそのように記されているので、信じたのである。その信仰は、聖霊の導きによることを、ただ感謝するばかりである。もし、復活が有り得ないことなら、最初の時、ローマの兵士やユダヤ人たちは、イエスの亡骸を人々に見せることができた筈である。けれども、空っぽの墓を前に、人々は何もできずにいた。キリストがよみがえらなかったのなら、弟子たちが、もう一度立ち上がることなどとてもできず、殉教の死など起こり得なかったのである。弟子たちはよみがえったキリストにお会いし、更に聖霊の力をいただき、押し出されるようにして立ち上がった。私たちも同じように、今の時代にあって、「復活の証人」として、世に送り出されていることになる。

 ところで、時間は有限である。そして、今のこの時は、何事もないかのように正確に刻まれている。その事実は、高く挙げられたキリストが、必ず「終わりの日に世をさばくためにこられること」を告げている。私たちは、「目を覚ましていなさい」と、繰り返し警告されていることを、しっかりと心に留めたい。決して慌てず、また騒がず、今いる所にあって、そして、託された務めを果たすことにおいて、精一杯励むことを導かれたいと願う。終わりの近さを認めるとしても、それがいつであるかは、誰も知らないことであり、惑わされないようにと、繰り返し警告が発せられている。(マタイ24:36)私たちは、必ず終わりのあることを信じ、そして、その日は救いの完成の時であることを信じて、今目を覚まして生きること、歩むことを導かれたいのである。
(コリント第一15:54-58)