神の御子キリストは、神であることを止めることなく、人となって生まれ、「あがない主」としての職務を果たされた。「預言者」「祭司」「王」として、御自身の民を滅びからいのちへと救い、やがて天の御国での救いの完成に至るまで、私たちを守り導いて下さる。問23の答において、三つの職務を「へり下りと高挙とのどちらの状態においても果たされます」と言われることについて、問27、28が丁寧に答える。問27「キリストのへり下りは、どの点にありましたか。」答「キリストのへり下りは、次の点にありました。キリストが生まれられたこと、それも低い状態であられたこと、律法のもとに置かれたこと、この世の悲惨と神の怒りと十字架ののろいの死を忍ばれたこと、葬られたこと、しばらく死の力のもとに留まられたことです。」人となってお生まれになったこと、そこには、私たちを救うための、神の尊い愛が凝縮されていたのである。
1、キリストの誕生を祝うクリスマスは、私たちにとって特別の喜びであり、感謝に溢れる時である。けれども、その誕生の出来事は、ただただ単純な喜びの出来事ではなく、深い意味のある、特別のことであった。神が人となって世に来られることがなければ、神に背いた人間に、救いの道が開かれることはなかった。罪に堕ちた人間には、自力で救われることは不可能だからである。神が人のところに降りて来られなければ、私たち人間は罪の中に、ただ沈み行くばかりで望みのない存在である。神はそのような人間に近づくため、人となられたのである。その時、位の高い者や優雅で快適な暮らしをしている者としてではなく、最も低い者に近づくように、貧しさの極みを味わうようにして、人となられた。当時のローマが支配する世界にあって、貧しい大工ヨセフの家で育ち、やがて公の生涯を歩まれた時も、ゆっくり枕する所のない旅を続けられた。また、律法を人に与える側の神が人となられたことは、ご自分を、その律法に従う側に置かれたことであり、自ら神の戒めを守る者として歩むことを選ばれたのである。キリストご自身が、あらゆる誘惑の多いこの世界に住み、罪と戦い、律法の要求を満たそうとされたのである。(4〜5節)
2、キリストは、私たちが経験する誘惑を忍び、また悲しみや苦悩を味わい、この世で理不尽な扱いを受けられた。そして、遂には父なる神の怒りを身に受けて、十字架ののろいと死を忍ばれた。それはパウロが語る通りである。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8)私たちと同じ痛みや苦しみを経験された方、けれども、罪を犯すことなく十字架で身代わりとなって下さった方、キリストはそのようなお方である。キリストの苦難の絶頂は、十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた時であろう。父なる神から見捨てられる苦悩を味い、耐え忍んでおられたのである。ご自身の民を滅びから救うため、私たちが裁きによって滅ぼされることのないよう、罪の代価を支払っておられた。私たちはこのキリストにあって、罪の赦しを与えられ義とされる。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント第二5:21)
3、十字架で死なれたキリストの死を、ただ気を失っただけ、と考える人々がいる。死からの復活など有り得ず、気絶していただけ・・・と。けれども聖書は、主イエス・キリストの死は、ローマの兵士たちによって確かめられ、その亡骸は取り下ろされ、アリマタヤのヨセフたちによって葬られたと、はっきりと告げている。三日目の朝、死からよみがえるまで、キリストは、「しばらく死の力のもとにとどまられた」のである。使徒信条で「よみにくだり」と告白することである。全ての人が必ず死ぬように、キリストも死の力の下に服された。しかし、キリストはそこに留まり続けることはなく、その死からよみがえられた。一番低くなられ、死をも味わわれた方、そのキリストを、父なる神はそこから引き上げて下さった。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒2:24)キリストは、十字架の死を、決して避けようとはされず、自ら進んで十字架の苦しみを忍ばれた。それが私たちの信じる救い主、キリストである。この方によって、私たちは罪の赦しをいただき、最早、自分の罪によって責められることから解き放たれ、神との親しい交わりの中で、喜びと感謝をもって生きることができる。キリストがへり下って人となり、私たちに近づいて下さったからに他ならない。
<結び> 私たちは、「あがない主」キリストが、私たちの所にまで降りて来られたこと、いと高き所におられた方が、いと低き所に来られたことによって、罪を赦され、たましいの救いを与えられたのである。神が私たちを愛して下さり、その愛とあわれみの豊かさによって、私たちは救いの恵みに与っているのである。キリストの「へり下り=謙卑=」、このことがあって、私たちの救いの道が開けたことを感謝し、大喜びすべきである。そして、そうである故に、私たちは、そのキリストにこそ倣うべきと導かれる。使徒パウロは、ピリピの教会の信徒たちに、そのことを心を込めて語っている。私たちもその教えを、しっかり心に留めたい。もし私たちが、キリストにあって救いの恵みを喜んでいるなら、生き方においても、キリストに倣うことを喜んで果たしたい。もしそのことをを置き去りにしているなら、私たちの信仰は空しいものとなるからである。
「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず・・・」(ピリピ2:1・・・)
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