「あがない主」キリストは、「預言者」として「御自身の御言葉と御霊によって、私たちの救いのために神の御意志を私たちに啓示してくださる」ことを、そして「祭司」として、「神の正義を満足させて私たちを神に和解させるために、御自身をいけにえとしてただ一度ささげられたこと、また私たちのためにとりなし続けてくださる」ことを、問答24、25によって学んだ。大祭司として、私たちのため、御自身の尊い命を捨て、罪の代価を払われたばかりか、私たちのために、とりなし続けて下さっているとは、何と心強いことだろうか。そして、「王」としても、その職務を果たしておられるのである。問26「キリストは、どのようにして王職を果たされますか。」答「キリストが王職を果たされるのは、私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいてです。」
1、キリストの王職は、「私たちを御自身に従わせ、治め、守ってくださること、また御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいて」果たされる。神は、「あがない主」であるキリストを遣わし、この方を「王」としても立てておられた。詩篇110篇は「メシヤ預言」の一つであり、キリストが「王」として、神の右の座に着かせられると告げている。神の民はこの王に仕え、また地の王たちは裁かれることが歌われるいる。この預言の成就として、幼子イエスがお生まれになり、罪のない生涯を歩まれ、十字架で死なれ、三日目によみがえり、天に昇り、神の右の座に着かれた。聖書の約束が確かに成就し、罪の赦しをもたらす福音は、全世界へと宣べ伝えられている。一連の事柄の全てにおいて、キリストは王として、その職務を果たしておられることになる。その働きの中心となるのは、キリストを信じる私たち、神の民を「御自身に従わせ、治め、守ってくださること」おいてである。キリストは、私たちを信仰に導き、天の御国に入る日まで、私たちを治め、道を逸れることのないよう、危険や罠から守って下さっているのである。
2、キリストは万物の支配者であり、天地万物を治めておられることは、聖書が繰り返す真理である。「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1:20-22)「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子にあって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)「・・・キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2:10)キリストの下に、万物を従わせることは、父なる神の御心であり、その支配の下に神の民が入れられることは、神の民にとって、最高にして、最善の守りの中に入れられる幸いである。神の、最高にして最善の、目には見えない、霊的な御国の守りの中で、神の民は支えられるのである。
3、キリストが先ず、私たちを従わせて下さるのは、私たちがキリストを信じて、神の民として歩み始めることにおいてである。また神の民、クリスチャンとして、教会に連なって歩もうとすることにおいてである。肉の弱さがあり、愚かさや不完全さに、絶えず心が騒ぐ私たちであるが、その私たちが、キリストに従って歩み続けられるのは、キリスト御自身が、王として私たちを治め、守って下さるからに他ならない。私たちは、王であるキリストによって、支えられ、豊かな実を結ぶよう、絶えず導かれている。そして、その確かな支配は、やがての天の御国での救いの完成へと、確実に繋がるのである。救いの完成は、「御自身と私たちとのあらゆる敵を抑えて征服してくださることにおいて」である。キリストは完全な勝利を、私たちにももたらして下さるので、私たちはその勝利を信じ、待ち望んで、今を生きることができる。「あらゆる敵」とは、神に敵対する地上の権威や権力のみならず、背後で働く悪魔や悪霊をも指している。(コリント第一15:24-25、エペソ6:11-12)私たちは、様々の試練に会って、心を痛めることがあり、苦難の前に絶望することがある。けれども、キリストが王として、私たちを支配し、守って下さることの確かさに目を留める時、立ち上がることができる。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右の座に着座されました。」(ヘブル12:2)
<結び> 私たち人間は、本当に弱い存在であり、愚かでありながら、なかなか弱さを認めようとしない、そのような存在である。自分の知恵と力では、どうすることもできないと分かっても、それでも、すぐに素直になることがない。けれども、神は、そのような私たち人間に対し、忍耐をもって、「わたしのところに来なさい。わたしを信じなさい」と、あがない主キリストを遣わし、この方に従うようにと、招き続けて下さっている。私たち一人一人が、自分の答を出して、王なるキリストに従うこと、それが求められている。
ところが神に立ち返ろうとせず、人間の中の強そうな者に惹かれるのが、世の常のようである。勇ましいことを言う人、声の人一倍大きな人、見るからに強そうな人、時には不遜に見える人、そのような人に、残念ながら世の人々は心を奪われる。しばしば人類の歴史が道を誤るのは、真の王ではなく、人間の王を求め、偽りの強さに惑わされる時である。私たちのこの社会が道を誤ることのないように、この国ばかりか、世界の国々が、見せかけの強さに心を奪われることがないように祈るため、キリストこそ真の王、私たちはこの方に従いますと、確かな信仰に立つことを改めて導かれたい。そして、私たち自身が、主によって支えられ、守られ、導かれ、やがての救いの完成を、確かに望み見て生きることを導かれたいのである。たといこの世の悪しき勢力が、力を増し、この世を欲しいままに支配したとしても・・・。(※8月15日を覚えつつ)
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