神の御子キリストは、神でありつつ、同時に人であるために、聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り、彼女からお生まれになった。罪なくして人として生まれるため、神はそのようなさった。そして、私たち人間と同じ「真実な体と理性的霊魂」を持つ方として、この地上を歩まれたのである。続いて問23は、その「あがない主」の働きについて問う。「キリストは、私たちのあがない主として、どういう職務を果たされますか。」答「キリストは、私たちのあがない主として、預言者、祭司、王の職務を、へり下りと高挙とのどちらの状態においても果たされます。」キリストは、「預言者」「祭司」「王」という、三つの職務を果たすため、神が人となられたお方である。人としてこの地上を歩まれた時も、天に昇られた後も、その職務を果たしておられる。詩篇2篇は、キリストの王職に関してのものであり、真の王がおられること、御子こそが真の王であり、その王により頼むことの幸いを歌うものである。
1、私たち人間が、神のかたちとして造られた時、「知識と義と聖において御自身のかたちにしたがって創造」されていたと、問10の答で述べられている。「知識と義と聖」が、神のかたちとしての人間の中味、大切な本質の部分である。ところが、人は神に背き、罪を犯して堕落した。すなわち、「知識と義と聖」において堕落し、腐敗は全人格に及び、全人類に及ぶことになった。神は、この人類を救うために、確かなあがない主、キリストを遣わそうとされたのである。聖書は、旧約聖書の時代から一貫して、預言者、祭司、王の働きを通して、神が人に働きかけ、語りかけ、手を差し伸べるていることを告げる。それは、キリストの「あがない主」としての働きそのものを指し示し、完全な救い主の到来を待ち望むようにとの、神の救いのご計画に沿うものであった。損なわれた「知識と義と聖」を、完全に回復する「あがない主」として、キリストは、「預言者、祭司、王」の三職務を果たされるためである。預言者は知識、祭司は聖、そして王は義に関わる働きが、それぞれ求められている。
2、キリストによってのみ、「真の知識」に回復させられる人間は、堕落によって、無知と愚かさの中に沈んでしまった存在である。また「義」ではなく「不義」や「不正」に、手も心も染まり切っている。そして「聖さ」、あるいは「聖性」から全く遠ざかり、「汚れ」や「罪深さ」、「悪」そのものを好む存在となっている。すなわち全人類は、「無知」で、「不義」な存在、そして「罪深い者」となったのであって、神はこの全人類を救うため、「あがない主」を遣わされた。「知識と義と聖」において、完全に回復することのできる「あがない主」を備えられたのである。その「あがない主」が世に来られるまでは、神が遣わされた人を通して、その働きを示しながら、ご自身の民を導こうとされた。神は、何故かそのようにして、ご自身の救いのご計画を進められたのであった。それが神の民イスラエルの歩みであり、旧約聖書の歴史である。
3、イスラエルの歴史において、モーセと預言者が立てられたこと、それはキリストの「預言者職」を指し示していた。彼らは神の言葉を民に告げ、民は知識を与えられ、神の教えに聞き従うよう求められていた。(申命記18:15)モーセの兄アロンとその子孫は祭司となり、キリストの「祭司職」、特に「大祭司職」を予め示し続けることになった。(ヘブル3:1-2、5:1-10)そして、王となったダビデとその子孫によって、キリストの「王職」を民に知らしめていた。(Uサムエル7:8-16)けれども、人間の場合には、どんなに優れた王も、祭司も預言者も、必ず欠けのあることが露わとなっては、民の失望をかっていた。真の預言者がどうしても必要であり、忠実な祭司、そして真実な王こそが必要であることを、人々が気づくよう、すなわち、本気で「あがない主」が来られることを待ち望むように、人々を導いておられたのである。そのようにして民は、「メシヤ」を待ち望むようになり、(イザヤ9:6-7)確かな信仰へと養われていたことになる。こうして、遂に時が満ちて、キリストが母マリヤから生まれ、地上の生涯を歩まれ、十字架の上で命をささげられたのである。
<結び> キリストは、神ご自身として人々に教えを語り、真の大祭司として、ご自身を十字架で犠牲としてささげられた。十字架の死からよみがえられた後、天に昇り、王の王として全世界を治めておられる。地上の生涯においても、そして天に昇られてからも、預言者であり、祭司であり、王として、完全な権威を持つ方として、三つの職務を果たしておられるのである。今、世界中に教会が存在すること、そして、聖霊の働きによって人々を信仰に導いておられること、また弱さと愚かさの中で迷う私たちを、天においてとりなして下さっていること、それら様々な形で、キリストは確かに「あがない主」としての三職務を果たしておられるのである。(ローマ8:31-34)
私たちがそれぞれ、信仰に導かれるに当たり、無知な心が、聖書によって照らされ、神の存在と自分の罪に気づかされたこと、そして救われるためには、キリストの十字架の血潮が不可欠であること、それらを知って悔い改めに導かれたことは、正しく「あがない主」の働きによることである。更には、この方にこそ従いたいと、心から願うことが必要なことであって、その願いを起こされ、神に祈るように導かれ、そして、神の民として歩ませていただく不思議を、私たちは確かに経験させていただいている。そこに、キリストご自身が、預言者、祭司、王私たち一人一人に関わって下さっているのである。私たちの側で、尚も心すべきことがあるとすれば、「王」なる方として、キリストに従うことにおいて、時に疎かにしていることがありはしないか、自分に問うことの大切さに気づかされる。一人一人の信仰の歩みにおいて、自己吟味しつつ、一層、キリストに従って歩む者とならせていただきたい。
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