礼拝説教要旨(2013.07.21)ウェストミンスター小教理問答22
人となられた神の御子
(ピリピ 2:6〜11)

 神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストである。そのキリストは、「神の永遠の御子でありつつ人となられた」お方である。あがない主はただ一人であること、神と人との間に立つ「あがない主」は、神であり人である方、キリストであることが、問21の答であった。完全に神であり、同時に完全に人間であることを聖書は告げている。そして問22へと続く。「キリストは、神の御子でありつつ、どのようにして人になられたのですか。」答「神の御子キリストが人になられたのは、聖霊の御力によって処女マリヤの胎に宿り・彼女からから生まれながらも・罪はないという仕方で、真実な体と理性的霊魂をおとりになることによってでした。」神が人となる不思議は、人の思いを超えた出来事であった。それは聖霊の御力によって実現していたのである。

1、クリスマスの出来事、神が人となって世に来られた幼子イエスの誕生は、聖霊によることと告げられていた。母となったマリヤ自身が驚き、疑ったほどのことであった。「聖霊があなたの上に臨み・・・」と言われ、夫ヨセフとまだ一緒にならない内に、彼女は身ごもり、不安な日々を過ごしていたに違いない時、神は御使いを遣わしてヨセフに告げられた。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」(ルカ1:26以下、マタイ1:18-25) 神ご自身が直接介入され、処女マリヤの胎に、神の御子が宿るという不思議を行われたのである。それはマリヤから生まれる「あがない主」が、罪のない者として生まれるため、神が選択された道であった。このようにして、神の御子が人となられたのである。いと高き神、栄光に満ちておられた神の御子が、人間の姿をとられたのであって、いと低き所にまで降りてこられた、そのような出来事であった。(6〜7節)

2、「処女降誕」は、キリストの誕生においてとても大事なことである。それは、マリヤから生まれながらも、「罪はないという仕方」が実現するために、神が用いられた方法であった。こうして主イエス・キリストは、罪のない人間として生まれ、人間としての「真実の体と理性的霊魂」を持つ存在として、この地上を歩まれたのである。主イエスは、神であり人であった。だから私たち人間とは違った存在で、罪の誘惑を受けることはなかった・・・と考えてはならない。神であり人でありつつ、私たちと同じ弱さを持っておられ、同じように誘惑と戦い、それに打ち勝たれたのである。そのようにして、罪のない方として、十字架へと進まれたのである。途中、幾度となく立ち止まり、それでも「唯一のあがない主」としての務めを果たすため、地上の生涯を歩み抜かれた。(8節)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)

3、けれども、この「処女降誕」について、間違った考えのあることを覚えておきたい。ローマ・カトリック教会では、母となったマリヤを神聖視するあまり、マリヤについても無原罪であったことを教理としている。無原罪懐胎説であり、永遠の処女性についても主張する。一方、プロテスタント教会においても、人間の科学や知識では理解できない奇蹟は認めないとする、近代主義の立場では、「処女降誕」は信じなくてよいと、そのように考えている。すなわち、聖霊による神の御業の有る無しは、それ程に重要なことではないとする。しかし、私たちは、「聖霊の御力によって」と言われること、神がそのようにして、罪人の救いを成し遂げるため、万全を尽くして「あがない主」を遣わして下さったことを、心から信じ、この救いに入れられたことを感謝するのである。神が救いの道を備えて下さるのでなければ、私たちは今も尚、罪と悲惨の中に沈み、永遠の裁き、滅びへとただ向かうのみである。私たちの内には、救いに向かういささかの善きものはなく、罪に汚れ、他の人を退けて自分だけ益を得ようとする、そんな醜さが満ちているのである。

<結び> 人となられた神の御子、「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」それは、罪人である私たち人間を、滅びから命に移すため、私たちを確かな救いに入れて下さるためであった。父なる神は、この主イエス・キリストを死者の中からよみがえらせ、天に引き上げ、この方を信じる者を救い、父なる神が誉め称えられるようにされたのである。(9〜11節)

 神が人となって来られたこと、その不思議の全てを、私たちはなかなか理解できない。そのために、神が備えて下さった救いの確かさや、また素晴らしさも、十分に分からないまま、通り過ぎるのかもしれない。けれども、神が人となって近づき、私たちの傍にいて、また私たちと共のおられることの確かさは、測り知れないものである。神が私たちと共におられるためにこそ、神の御子が人となられたのである。「インマヌエルの神」として、いつも私たちと共におられ、私たちを守り、私たちを支えて下さる、そのような神、私たちを確かに救うことのできる方として、神の御子が人となられたのである。この方を信じる信仰が、一層堅くされることを祈りたい。