神のかたちとして、はなはだ良く造られた人間が、神に背く罪を犯して堕落した事実は、この世界に罪と悲惨がもたらされていることに明らかである。私たち人間は、確かに有能で、限りない可能性を秘めた素晴らしい存在である。けれども、はなはだしく悪に染まっている事実、また自らの死を克服できない事実、そして永遠の地獄の刑罰の事実を、聖書が明らかにしていることから、決して逃れられない。人間の罪と、その悲惨について、私たちには解決の道は見出せない。しかし神は、救いの道、永遠のいのちへの道を備えておられた。「ひとりのあがない主」によって、「ある人々を永遠の命」に入れて下さるのである。それは、神の確かなご計画であり、確実に実現する救いである。
1、問21「神の選民のあがない主とは、どなたですか。」答「神の選民の唯一のあがない主は、主イエス・キリストです。このかたは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます。」神は、ご自身のご計画に従って、「唯一のあがない主」、「主イエス・キリスト」を遣わされた。人間の側では、何ら手立てがなく、どんなにあがいても救いの道はなかった時、神ご自身の側で、完全な救いを備えておられたのである。神は、人間の罪を見過ごすことはなさらず、それを無かったことにするような、安易なことは、ご自身の正しさ、また聖さのゆえになさらなかった。「あがない主」を備えられたのは、人間の罪を必ず裁き、その代価の支払いを求められたからである。そして、その代価を支払う者には、一点の罪もないこと、曇りも汚れもないことを求めておられた。罪のない者が「あがない主」となること、ただそのことが肝心なことであった。
2、罪の代価の支払いのため、神が求めておられたのは、血潮が流されることであった。失われたものが回復させられるため、「あがない」の代価を求められた。けれども、通常の出生で生まれた人間は皆、原罪があり、誰も「あがない主」にはなれない。この事実は動かし難いことである。神のご計画は、罪のない神の御子が人となって、確かな「あがない主」となることであった。こうして、ただ一人、「主イエス・キリスト」が、「神の選民のあがない主」となられた。神の永遠の御子が、神でありつつ人となることによって、神が求めておられる「あがない主」となられたのである。半分神であり、半分人であるというのではない。百パーセント神であり、同時に百パーセント人である方として、主イエス・キリストは世に来られ、十字架で身代わりの死を遂げるため、この地上を歩まれ、罪のない方として生き抜き、罪の代価を支払われたのである。教会が世々にわたり、「主イエス・キリスト」と仰ぐお方、この方こそが「唯一のあがない主」であり、私たちが信じ、お従いすべき、真の「救い主」である。私たち一人一人、心から信じているか、心の内を探られる。
3、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者の唯一であって、それは人してのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」(5〜6節)神がただ一人であられること、そして、「仲介者」もただ一人であられること、この「唯一の神」、「唯一の仲介者」、そして、問21の答の「神の選民の唯一のあがない主」という理解は、殊のほか大切な事柄である。「唯一」との言葉が示すことを、いささかも軽んじてはならない。神に背を向けた人間は、いつでもこれに異議を唱えるからである。また教会の歴史さえ、この「唯一」が意味することを歪める事実がある。聖書は、繰り返し、繰り返し、神は「だだひとりです」と言う。(申命記6:5) また「主にだけ仕えよ」(マタイ4:10) と主イエスは答え、「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)と、聖霊に満たされたペテロは語っている。長老教会の洗礼式の誓約箇条でも、「のみ」との言葉が繰り返される。確かな救いのカギは、「唯一のあがない主」にかかっている。いささかも曲げることなく、「主イエス・キリスト」を信じる信仰に立ち続けることが導かれるように。
<結び> 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)
唯一の神がおられること、そして唯一の仲介者、あがない主、また救い主がおられること、それは神であられ、神の御子でありつつ人となられた方、主イエス・キリストであること、このことを心から信じる者は幸いである。イエスを神の御子キリストと信じて告白したペテロは、イエスを神であり、また人なられた救い主キリストと信じたのである。(マタイ16:16)神が目の前におられ、不思議をなさり、この方は特別な方、人となられた神であることを、より深く、確かに知るように導かれていた。私たちも、聖書を通して、イエスこそ神の御子キリスト、正しく「主イエス・キリスト」との信仰を、なお深く、豊かにされることを祈り求めたいものである。(ピリピ2:6-11)
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