礼拝説教要旨(2013.06.30)ウェストミンスター小教理問答⑳
永遠のいのちへの道
(ローマ 3:21~26)

 ウェストミンスター小教理問答は、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」に始まり、その目的を果たすには、聖書に聞き従うことの大事さを明らかにしている。また、聖書が、三位一体の神がおられこと、その神が天と地を造り、人を神のかたちとして造られたことを、問答を通じて教えている。そして、第13問答から19問答まで、神に背いた人間の罪について、その罪ゆえの悲惨ついて、詳しい教えをくり返している。堕落した人間の行く末の悲惨さは、実際に想像を絶する恐ろしさである。誰もが、果たして希望があるのか・・・と、意気消沈しそうである。けれども、神は確かな救いを備えておられた。神ご自身が、人のために、恵みとあわれみを注いでおられるのである。

1、問20「神は全人類を、罪と悲惨の状態のうちに滅びるままにされましたか。」答「神は、全くの御好意によって、永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられたので、彼らと恵みの契約を結ばれました。それは、ひとりのあがない主によって、彼らを罪と悲惨の状態から救助して、救いの状態に入れるためです。」恵みとあわれみに富む神は、人を、ただ滅びるままに捨て置くことはなさらず、救いの道を備えておられた。これは、人間の側に、救われるに価する何かがあるからでなく、「全くの御好意によって、・・・永遠の命に選んでおられた」という、「無条件的選び」による救いである。何時、神がそれを決められたのか、どのように判断されたのか、それらは全て、ただ神ご自身の中で決められたことであって、聖書がそのように告げるのである。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く傷のない者にしようとされました。・・・」(エペソ1:4-5) 神は、このようにして、ご自身が選ばれた者たちとの間に、「恵みの契約」を結ばれた。全人類を、罪と悲惨のうちに滅びるままにはされず、救いを備え、永遠のいのちへの道を開いておられたのである。

2、その永遠のいのちへの道は、「ひとりのあがない主によって」開かれるものであって、罪と悲惨により滅びに向かう人々を、「救助して、救いの状態に入れるため」のものである。先に、人間の罪がどれ程に悲惨であるか、また、人間は誰一人、自分の力で自分を正すことができないと覚えた通り、人間には、絶望しかなく、全く光のない状態を覚えなければならない。その滅びから救われるのは、神が手を差し伸べて下さることによる。すなわち、神の御子イエス・キリストが「あがない主」として遣わされ、十字架で身代わりの死を遂げて下さることによる救い、ただこれだけが確かな救いの道である。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23~24節)けれども、この救いについて、「全くの御好意によって」と言われても、「永遠の昔から、ある人々を永遠の命に選んでおられた」と言われると、多くの人が、この「選び」の教理について、激しく反対するのが教会の歴史であり、人類の歴史であった。

3、神が、救いについて、「あらかじめ定めておられました」(エペソ1:5)と言うなら、私たち人間の応答、悔い改めと信仰をどのように考えたらよいのか、と戸惑うのは当然かもしれない。極端には、神が選びによって救って下さるなら、人間は何をしても救われるのではないか、とまで言い始める。選ばれているなら、救いは自動的ではないかと考えるからである。救いに与る人は、必ずやキリストの元へと導かれ、罪の悔い改めと確かな信仰へと導かれるのであって、神の救いのご計画の確かさこそ、心に留めるべきことである。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8:30)聖書が語ること、その真理がどんなに私たちには受け入れ難いものと思えても、それでも神の約束に聞き従うこと、それが肝心なことである。主イエスご自身が、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」と、はっきり語っておられる。(ヨハネ15:16)

<結び> 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:16-17)

 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(テモテ第一1:15)

 神に背いて堕落した人間は、その罪によって全員が死に値し、滅びを免れないという事実を忘れてはならない。「ある人々が永遠の命に選ばれた」としても、そして他方、滅びの罰を受ける人々がいたとしても、神は全く公平なお方である。神は主権者として、ご自身の恵みとあわれみを注いで、ある人々を救いに招いておられるのである。そして、私たちは、聖霊の導きによって、悔い改めと信仰へと導かれ、不思議にも、永遠のいのちへの道を歩ませていただいている。私たちには、自分を誇れるものは何もないとしても、救い主を遣わして下さった神こそ、誉め称えるべきお方と、心から言うことができるのである。(コリント第一1:26-31、12:3)