礼拝説教要旨(2013.06.16)ウェストミンスター小教理問答R
人間の本当の悲惨とは
(マタイ 25:31〜46)

 聖書の人間理解、または人間観を踏まえることがどれだけ大切なことか、問18の答は、大切な真理を私たちに教えてくれた。私たち人間は、誰一人の例外なく神の前に罪があり、最初の義を失ったことによって、原罪を持って生まれてくること、そして、その腐敗した内面より、現実に犯される罪、ありとあらゆる悪が生じるている。そこから救われるのは、ただ恵みにより、信仰による。けれども、神に背を向けたままの人間は、罪の事実も罪ゆえの悲惨も、それらはないものとして、すり抜けようとしている。問19「人が堕落した状態の悲惨とは、何ですか。」答「全人類は、堕落によって神との交わりを失いました。今は神の怒りとのろいの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と死そのものと永遠の地獄の刑罰との責めを負わされています。」

1、この問19と答が指摘することは、堕落した人間の悲惨さを告げている。けれども、実際のところ、人間の側がこれを悲惨と感じていないこと、これが最大の問題と言える。その意味で、罪は神との関係を察知する感覚の麻痺、そのようにも考えられる。堕落によって、神との交わりを失ったことなど、それは、初めからなかったことのように思っている。今、神の怒りとのろいの下にあること、それも、全く考えられないこととして退ける。それでいて、不幸が続くと、目に見えない力を感じて、不幸を振り払いたいと願う。この世であらゆる悲惨のあること、そして、誰も死を克服できないこと、これらは、認めないわけにはいかず、不本意ながら受け入れている。けれども、究極の悲惨である「永遠の地獄の刑罰」の責めについては、認めるのか、認めないのか、いや認めたくないのか、はなはだ煮え切らない態度を示す。「地獄?」それはただ話だけのこと、本当かどうかは、誰にも分からないこと・・・と。しかし、地獄に怯えてみたり、それで脅したりしている。果たして、それで良いのだろうか。聖書は何と言うのか・・・。

2、主イエスは、大切な真理について、多くのたとえをもって語っておられる。羊飼いが羊と山羊とを分けるたとえは、究極の救いについての教えである。(マタイ25:31-46) 最後の最後に、確かに救いに入れられる者と、退けられる者に分けられることを、主イエスは明言された。その日、その時に、本当はどうなるのか。そこまで深刻なのではない、これは警告なのだと、そう考えてよいのだろうか。もし私たちが、そのように考えるなら、主が語られたこと全てに関しても、同じ態度を取ることになる。すなわち、主が語られた言葉であっても、納得できないことは、そのままにしておいて良い。分かることは受け入れ、聞けそうなことは従ってみれば・・・。最後の時、主ご自身が、羊と山羊とを分けると、はっきり言われた。羊と山羊が違っているのは、主のみこころを行ったか否か、ただそれだけであった。しかも、みこころの通りに行ったことを、いささかも頓着していなかった者たちと、反対に、もっぱらそのつもりで生きていた者たちの違いとなっていた。後者が、『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。・・・』と、厳しく裁かれるのである。

3、この第19問答が指摘する人間の悲惨は、人間が神との交わりを失い、神の怒りとのろいの下にあり、この世であらゆる悲惨を逃れられず、死が全ての人を脅かしている事実にある。その上、永遠の地獄の刑罰が定められている。神のかたちに造られた人間は、神との交わり抜きに、心が本当に満たされることはない。神の怒りとのろいは、あらゆる悲惨が襲って来た時、それに無力な人間の現実によって思い知らされる。そして肉体の死は、人がちりに過ぎないことを気づかされる、とても大事な事柄である。それでも、主イエスの言葉の前を、通り過ぎるのだろうか。最後に、永遠の刑罰のあることを明言して、わたしに聞き従いなさいと、主は招いておられる。聞く耳がある者は、聞きなさいと。人間の本当の悲惨とは、聖書が教える警告に対して、耳を塞いでいることにある。悲惨を、決して悲惨とは思わない、その積極性や勇敢さは、神の前には、全く役に立たないものである。人間の罪に対する楽観論は、人間の本当の姿を知るためには、全くの障害となるだけのものなのである。

<結び> 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30) 主イエス・キリストの招きの言葉に、心から従う人、立ち上がる人、その人は、滅びからいのちへと移される。主イエスが、心の底から人々に語り、人々が心を開くようにと願われたことは、この一点にあった。その主イエスの思いは、今日も聖書を通して語り掛けられている。また、礼拝の説教も、礼拝の全ても、教会の働きの全ては、そのことのために続けられている。「福音の宣教と立証のため」私たちは生かされているが、一人でも多くの人が、罪を認めて悔い改め、十字架と復活の主、イエス・キリストを信じるよう導かれること、神の民が教会に招かれ、益々神に栄光を帰することが導かれるように、私たちは、祈り、励まし、支え合って、前進させていたこうではないか。