聖書の人間理解は、全ての人が例外なく、神に対する罪と悲惨の中にいるという事実である。最初の人アダムが神に背いた、その罪の結果は全人類に及んでいる。すなわち、通常の仕方で生まれてくる人は、みな「原罪」を持って生まれてくる。この点について、更に問答は続く。問18「人が堕落した状態の罪性は、どの点にありますか。」答「人が堕落した状態の罪性は、次の点にあります。すなわち、アダムの最初の罪の罪責を負うていること、原義を失っていること、人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じることです。」もう一度、アダムの罪が、全ての人に及んでいることに先ず触れ、更に、最初に与えられていた「義」が、失われたことが指摘される。罪のない「非常に良かった」状態は、最早過ぎ去ったからである。
1、その上で、問18の答は、「人の性質全体の腐敗つまりいわゆる原罪があること、そこからあらゆる現行罪が生じていることです」と、人に原罪があること、その原罪の事実から、現実に犯される罪が生じると指摘する。「原罪があること」は、人の性質全体が腐敗していることを意味している。このことは「全的堕落」と言われ、人間の内面について、その本性の全体に腐敗が及んでいると理解することである。人間の内面も外面も、その全てが見るも無惨な姿に成り果てているということではない。神のかたちとして造られた人間は、知識があり、感情があり、意志の自由があり、理性を働かせて物事を考え、極めて豊かな文化や文明を形成し、そして今日に至っている。人間の何もかもが腐敗し切っているというのではない。けれども、知識や感情にも、また意志や理性にも、堕落による本性の腐敗が確実に及んでおり、人は生まれながらのままでは、神に喜ばれることを何一つ行えないまでに、「原罪がある」のである。「全的堕落」とは、人間の本性の奥深いところでの腐敗であって、神がそれを見ておられ、知っておられるということである。(創世記6:5、マタイ15:16-20)
2、私たち人間は、この原罪の事実についても、なかなか受け入れたくないのが普通である。「人の性質全体の腐敗」も、また「全的堕落」も、そして「原罪」も、いずれも認めたくはないことである。人間の賢さや有能さ、そして心の優しさ、どれを取り上げても素晴らしいことと反論が起こる。けれども、どんなに素晴らしい人でも、その人の心の中から、悪い考えや思いが溢れ、そこから悪しき行いが生じるのである。その実際の罪の行為は、人の内面の腐敗、すなわち原罪から引き起こされるものであって、制しにくい悪と言うべきものである。人がどれだけ修行を積んで、訓練を重ねても、また厳罰を科しても、現行罪を少しでも減らせるとは決して言えない。もちろん、修行や訓練は一時的には、それなりの効果があるに違いない。しかし、本質的には、何らの改善も期待できない。むしろ、最初の人の罪の罪責を負うていること、原義を失っていること、そして原罪があり、そこからあらゆる悪、現に犯される罪が生じることを、しっかり心に覚えなければならない。
3、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」これは、神が洪水前の人々の様子をご覧になった時のことである。神は、人の心の中を見ておられた。今日も、神が私たちの心の内をご覧になる時、同じように見通しておられるに違いない。けれども、私たち人間の現実、この社会は、もうどうにもならないまで、腐敗し切ってはいないのも事実である。悪の極限に到達しているとは思えない。これは、だだ神のあわれみによることで、この世界が暴虐で満ち溢れるまでにはならないよう、保たれているからである。神ご自身が悪を制しておられ、罪を抑止しておられる事実を認めなければならない。神のかたちとして造られた人間には、確かに良心があり、その良心の働きによって、現行罪から離れることができるよう、私たちは支えられている。自分からは神に心を向けることはなくても、善なるものに向かい、良い行いをすることも保たれている。人間をお造りになった神は、人間のために、限りなくあわれみを注いでおられるのである。
<結び> 私たちが気づくべきこと、心から感謝すべきこと、それは、全く罪に堕ちた私たち人間のため、神ご自身が救いの道を開いて下さったこと、そして、その救いに私たちを入れて下さったこと、救いに入るよう招いて下さっていることである。全的に堕落した性質しか持ち合わせていない私たちが、神の救いの招きに応えることができるのは、先ず神が聖霊を遣わし、聖霊を働かせて、私たちの心を捉えて下さることによる。聖霊による新しいいのちに生まれ変わることがあって、初めて、私たちは信仰への一歩を踏み出せるのである。事実、その一歩を踏み出せたのである。新生の恵みは、先ず神が注いで下さるものである。その一歩から始まり、私たちは神の民として、また神の子、キリストの弟子として歩むよう導かれている。私たちは、最早生まれながらのままの者ではない。キリストにあって生まれ変わった者である。罪の性質となお戦わねばならないこの世にあって、罪の支配から解き放たれた者として歩むよう、常に導かれている。罪の事実を知ると同時に、その罪から救われ、解き放たれている幸いを心から感謝し、日々を歩むことが導かれるように!!
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