最初の人アダムとエバは、神の戒めに従わずに、善悪の知識の木から取って食べ、神の律法に背く罪を犯した。彼らは自分の意志の自由に任されていたが、その意志によって、不服従を選び取ったのである。その結果として、罪は全人類に及ぶことになった。問16「アダムの最初の違反で、全人類が堕落したのですか。」答「あの契約がアダムと結ばれたのは、彼自身ためだけでなく、子孫のためでもありました。それで、普通の生まれかたでアダムから出る全人類は、彼の最初の違反において、彼にあって罪を犯し、彼と共に堕落したのです。」問17「堕落は、人類をどんな状態に落としましたか。」答「堕落は人類を、罪と悲惨の状態に落としました。」今日、世界中のどの国の人であれ、例外なく全ての人が、神に対する罪と悲惨の中にいる。これが聖書の人間理解である。私たちは、この事実を心に留めなければならない。
1、「『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。』」使徒パウロは、詩篇14篇を引用して、「すべての人が罪の下にある」ことを論証している。(9〜12節)しかし、世の多くの人がこれに反論する。自分のことはもちろん、世に善人は多くいるではないか、善良で、偉大な足跡を残した人が沢山いるではないかと。私たちは常日頃から、人間の素晴らしさ、有能さ、そして、人類の英知の誇らしさを知らされている。そのために、人間の罪の深さや凄まじさ、罪ゆえの悲惨さなどは、なかなか認められずにいる。いや認めたくないのである。けれども、最初の罪、最初の違反によって、全人類が堕落したこと、これが人間の姿である。「普通の生まれかたでアダムから出る全人類は」と言われるのは、ただ一人の方、イエス・キリスト以外の全ての人が、罪の中にあることを指している。すなわち、みな罪の性質を受け継ぎ、罪ある者として生まれて来る。誰一人として例外はない。
2、私たち人間は、この罪の事実を受け入れるのに、あくまでも頑なである。クリスチャンとなってからでも、教会で余り罪のことは聞きたくない、礼拝では強調し過ぎないで・・・と、そのような話を聞く。それこそ世の人々は、絶対に聞きたくない、認めたくないのが、全人類の罪の現実である。だからこそ、私たちは罪を直視すべきであり、自分自身の罪を認めなければならない。全ての人が必ず死ぬこと、そして死は、罪に対する刑罰であること、更に、罪と悲惨の事実は全ての人に例外なしに及んでいること、これらは何を告げるのかを、よくよく知らなければならない。全ての人に罪があり、その罪の結果、全ての人が死ぬこと、そして罪と悲惨がどこから来るのか、そのことを知っているか、それを知って神の前にひれ伏すのか、その一つ一つが問われる。世の人は、現実の悲惨さに心を痛め、神がいるなら何故・・・と問う。けれども、聖書は、神への背きの故に、全人類が罪と悲惨の中に落ちたと言う。私たちはそのことを受け入れる。聖書がそのように説くからである。
3、「『彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。』『彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、』『彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。』」(13〜14節)どんな善良な人でも、その人の舌には制しにくい悪が潜んでいる。言葉に出さずとも、心の底に潜む妬ましい思い、また激しい怒りを制するのは容易ではない。「『彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。』」(15〜17節)人の怒りは、たちまち燃え上がり、兄弟の命を奪い、争いを呼び起こす。私たちの国が、今、直面している課題は、かつての破壊と悲惨を忘れ、再び破滅へ向かおうとする危うさではないか。「『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』」(18節)神への恐れの欠如こそ、罪と悲惨の中にいる人間の姿である。罪を罪と思わない、いや思えなくなっているので、悪を善と言い換えるまで自分を正当化する。その凄まじさは、救いがたいまでになっている。
<結び> 堕落し、罪と悲惨の状態に落ちた人間に、果たして救いはあるのだろうか。全ての人が、罪と悲惨の中に閉じ込められたのである。しかし、神はその罪の中から、人々を救い出すため、救い主を遣わされた。神の御子イエス・キリストを世に遣わし、この方を救い主と信じる人々を救おうされた。この方を世に遣わすのに、罪のない方として世に生まれるよう、聖霊によって母マリヤの胎に宿らせ、罪のない者として、十字架で身代わりの死を遂げさせられた。神はそのように、一人の人を通して罪が全人類に及んだ原理を、救いの恵みにおいて果たそうとされた。ただ一人の救い主、イエス・キリストの身代わりの死によって、キリストを信じる全ての人を救おうとされた。罪の中にある者は、自分からは決して神に向かうことはないが、不思議にも神に向かうよう導かれ、神に対して心を開かれるのである。その救いは神からの賜物であり、実に、恵みにより、信仰によるのである。(ローマ5:12-21)
この救いに関して、罪と悲惨の状態とは、自分からは決して心を開くことのない悲惨さであることを、改めて覚えておきたい。人の罪の凄まじさは、人がどれ程善良であっても、自分からは神を求めず、救いに関しては全く無力なのである。少しでも神を求めるとしたら、それは先ず、神が働き、聖霊の導きを与えて下さることによる。救いの恵みは、神からの賜物であり、価なしに与えられる幸いである。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(23〜24節)パウロは、次のようにも語っている。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)私たちが救いに導かれたこと、信仰に歩ませていただいていること、そのことこそ、神に栄光を帰すべき、不思議中の不思議である。心からの感謝をささげ、信仰の生涯を歩ませていただきたい。
※転入会式あり(ドイル・コリン兄、ひとみ姉)
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