礼拝説教要旨(2013.05.26)ウェストミンスター小教理問答LMN
人間の罪とは何か
(創世記 3:1〜7)

 神は、ご自身のかたちとしてお造りになった人間を、特別の摂理の行為をもって治めておられた。命の契約を結び、ご自身の戒めに従うことを求め、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2:16-17)と命じておられた。神は人に、完全な服従を求め、神と共にある幸いを生き抜くよう願っておられたのである。ところが人は、その最初の幸いな状態から、道を踏み外した。問13「私たちの最初の先祖たちは、創造された状態で続きましたか。」答「自分の意志の自由に任されていた私たちの先祖たちは、神に罪を犯すことによって、創造された状態から堕落しました。」問14「罪とは、何ですか。」答「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくことです。」最初の人アダムとエバは、神が求めておられること=律法=に背いた。それが罪の始めであった。
(ヨハネ第一3:4「罪とは律法に逆らうことなのです。」)

1、どのように背いたのか。問15「私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、何でしたか。」答「私たちの最初の先祖たちを、創造された状態から堕落させた罪とは、彼らが禁断の木の実を食べたことでした。」私たちが「罪」という言葉を聞くと、通常「犯罪」を思い浮かべる。そのために、初めて行った教会で、「あなたは罪人です。あなたには罪があります」と言われ、戸惑う人、また反発する人が多い。自分がどうして「罪人」と言われなければならないのか。「罪」とは、確かに悪い行為の全般を指すとしても、自分はそんなに悪くはない・・・。結局は、罪そのものに気づかなくなる。けれども、「罪とは、神の律法への一致に少しでも欠けること、あるいは、神の律法にそむくこと」である。神の戒めに従わないこと、「取って食べてはならない」と命じられていたことに従わず、「取って食べた」こと、その不服従が罪の始めであった。

2、最初の人アダムとエバには、意志の自由が与えられていた。「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、何不自由しない幸いの中にいた。その幸いの中で、蛇は、神の言葉を歪めるように語った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(1節)サタンが蛇の姿を借り、誘惑者として近づいていた。女の受け答えに隙のあるのを見たサタンは、たたみ掛けるようにして、「あなたがたは決して死にません」と、神の言葉そのものを否定し、善悪を知る木から取って食べるよう唆した。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(2〜5節)「目が開け、神のようになり、善悪を知るようになる。」誘惑の言葉は、これで十分。「神のようになり、善悪を知るようになる」こと、これが人の心を誘惑し、唆した。そして、人間が神に並ぼうとするのを阻止するため、神は不当な禁令を設けられた、と思い込ませられたのである。

3、二人は、全くの自由の中にいた。誘惑されても、踏みとどまる自由があった。園の中央には、「いのちの木」と「善悪の知識の木」があった。もう一度見比べることもできた。けれども、女には「善悪の知識の木」しか目に入らなかったようである。「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(6節)二人は、それぞれ自分の意志の自由をもって、神の戒めを破り、神に背いた。「神のようになる」ことを選び取り、その結果、「ふたりの目は開かれた」ものの、その目が見たのは、「自分たちの裸」であった。(7節)二人は自らの姿の脆さや卑しさを、認めないではいられなかった。先には決して恥じなかった裸を、いちじくの葉で覆わねばいられず、神の前に出ることのできない、そんな自分の卑しい姿を認めたのである。その後二人は、神の目を避け、身を隠している。

<結び> 人間の罪とは、最初の人が神に背いたこと、神の律法に聞き従わず、律法に背き、神に服従するのを止めたことである。この罪の結果、人は自分の罪に対して鈍感となり、時に無頓着で、罪を罪とは思わない、そのようなおぞましい現実を産み出している。神に対する罪が不明確となる時、目の前にある悪さえも、そして凶悪な犯罪さえも、自分で自分を正当化する人々は、これを正しいこと、必要なことと、恥ずかしげもなく主張することになる。こうして、私たち人間は、善と悪、正義と不正義、真実と不真実また偽り、正しさと誤りなど、その違いをを区別し、見分けることの難しさの渦中にはまり込んでいる。その難しさを乗り越える唯一の道は、神を恐れ、神の言葉に従うこと、神の律法に聞き従うことである。生ける真の神がおられ、その神が聖書を通して、私たちに生きる道を示しておられるからである。(※ローマ3:9-24)

 それでも、私たち人間は、神に従うのに、その道が狭い、歩み難い、分かり辛い・・・など、いろいろ言い訳をする。けれども、神が示しておられることは、決して分かり難いものではない。神が求めておられるのは、神の律法への従順である。最初の罪が、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という戒めへの背きであったことを忘れてはならない。その不従順、また不服従により、今、意志の自由があっても、自ら善を選ぼうとして、自由に選び取れないまでに、自由は損なわれたのである。その損なわれた自由が、再び回復され、神の元に立ち返るようにと、私たちは主イエス・キリストにあって、救いに招かれたのである。そして、私たちは信仰へと導かれた。神は、私たち人間の、神に背いた罪を赦し、神との幸いな交わりの中に、私たちを招き入れるために、御子を遣わし、十字架で身代わりの死を遂げさせられたのである。人間の罪が何であるかを知り、心からの悔い改めに、尚も進ませていただきたい。そして、ただ一人正しいお方、真の神の前に、心を低くし、神の戒め、神の律法に従う者として歩ませていただきたい。