私たちは今朝、「教会設立34周年記念礼拝」をささげられることを、先ず、教会のかしら、主イエス・キリストにあって、父なる神に心からの感謝をささげたい。そして、ただ神にのみ栄光がありますようにと、賛美と祈りをささげたい。多くの教会が10年、20年・・・と、その節目に特別の思いを抱くのは、至極当然のことで、日本長老教会は、今月第一週に「設立20周年記念礼拝」をささげたばかりである。その二週間後、所沢聖書教会の記念礼拝であって、何をどのように記念するのか、やや戸惑っている。けれども、やはり、これまでの歩みを振り返るように導かれた。この「34周年」は、果たしてどのような意味があるのか、何を心に刻むのか・・・と。
1、一昨年、2011年5月15日、「32周年」の礼拝にて、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」との説教題で、詩篇103篇から、主の教えを聞いた。主の恵みのみ業をどれだけ覚えているだろうか、痛みや苦しみばかりを思い出し、主の良くして下さったことを忘れてはいないか、そんな反省もしきりであった。教会設立後の15年と、その後の17年の歩みにも触れた。川越伝道所の開所があり、独立があり、そして分裂があったこと、実に様々な経験があり、今日があることを心に留め、その中を歩まされ、導かれ、支えられて来たのであった。主の恵みと導きこそ、私たちの教会の拠り所である。それから2年が過ぎ、主は特別な配慮と導きを与え、私たちの教会を、尚もご自身の教会として歩ませて下さることを、今朝一同で感謝したい。それは、この3月末をもって、伝道所からスタートした「川越めぐみ聖書教会」の歩みが閉じられ、その教会のメンバーが当教会に復帰した事実である。主は、私たちに一歩前に進むことを促して下さる、正にそのように思われる事柄である。
2、感謝をもって、前に進むよう導かれている私たちであが、その時、改めて、パウロが語る言葉が、私自身の心に響いている。「・・・しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」教会は主のものであり、確かな土台であるキリストの上に建てられるもの、という教えである。どのような家が建てられるのか、よくよく注意を払うようにと、警告が発せられている。しかも、「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。・・・」と、建物が残るか残らないかまで、細心の心遣いをせよ、と語られている。救いの確かさは脅かされることはなくても、教会の善し悪しは必ず問われると、そのような警告である。私たちは、この警告に耳を傾け、その上で教会を建て上げることに、心を込めて関わって行きたい。一人一人が神の神殿であり、また神の民の集まりとしての教会も、神の神殿である。土台はキリストであって、その土台の上に、どんなものが建て上げられるのか、それは私たちに託されているのである。そのキリストとは、十字架で死なれた方、しかし、三日目によみがえれたお方である。
3、私たちの教会の歩みを振り返るなら、果たして「金、銀、宝石、木、草、わら」の、どれによって建てられているのだろうか。1979年5月20日の三人の長老任職による教会設立後、間もなくして、熊田伝道師が転出し、やや意気消沈した時期を思い出す。それでも主は、私たちを励まし、支えて下さっていた。前年の1978年4月と11月、二期に渡って会堂建設を導かれた勢いで、礼拝に集う方は増え、主に従うのに必死な状態でもあったようにも思う。活動が多岐に渡り、主の日ばかりか週日も忙しく動いていた。1983年の秋、反省を迫られるように、活動を縮小することになり、その状況の中で、伝道所開所の願いが起こされたのが1986年であった。4月に片岡由明牧師を招聘し、7月には開所式を行い、教会が教会を産み出す喜びを味わった。その後の多くは省略するが、1994年の分裂の事実は忘れることができない。何をするにも、その事実を乗り越えるのは容易ではなかった。痛みを残したまま、次に進むことはできなかった。けれども、前年から歩みを始めていた日本長老教会が、1998年に中会再編成を行なったことが、痛みを少し和らげてくれた。また2001年の隣地購入と牧師館取得に、私たちは大いに励まされた。そして2009年には、「教会設立30周年記念あかし集」を発行することができた。それから4年が過ぎている。主は私たちの教会に何を望んでおられるのだろうか。そして、私たちはどのようにお答えするのだろうか。
<結び> ここ数年、私たちは、やや古いスタイルの伝道集会を開催して、福音の証しに取り組んでいる。そして今日は、午後チャペルコンサートを開いて、多くの方に教会に来て頂きたいと願っている。何をするにも、目に見えるものに左右されないこと、目に見えないものこそ尊いことを、しっかり心に留めて歩みたいと思う。生ける神が、人の上辺ではなく、心をご覧になることを私たちは教えられている。私たちは、目には見えない部分において、神に良しとされることを重んじて歩むこと、イエス・キリストを救い主と信じる信仰において確かで、純粋であること、偽りの教えに惑わされないことを尊びたい。コリントの教会が直面していた課題は、分裂や分派、また優劣を競うことなど、極めて人間的な事柄であった。その同じ課題が、実は今日の教会にも当てはまることに気づかされる。私たちもついつい、見えることに惑わされる。この世の教会も、見える所で評価され、私たちもその評価に頼ろうとする、そのような誘惑を受ける。その誘惑はとても強いものと感じる。
事実、目に見える部分で、会堂が広くされることを、私たちも確かに願っている。この会堂ができた時から、ずっとその願いがある。移転したいという意見もあった。でもこの場所に導かれたこと、この場所で証しし続けることを、主は導いて下さった。これからの導き、40年、また50年の導きは、まだ全てが明らかではない。祈りに覚え、確かな導きをいただきたいと願わされる。そして、その導きに従いたい。ただ主だけを誇る信仰を追い求めたい。据えられた土台は、イエス・キリストであり、その土台の上に、精一杯の思いをささげて、キリストの教会が建て上げられるように、歩み続けたい。この世がどんなに私たちを惑わしても、私たちは、キリストに従うことを貫けるように。
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