礼拝説教要旨(2013.05.12) 
驚きのある人生への招き
(ヨハネ4:1〜42) 吉枝隆邦師

私たちの人生に「驚き」はしばしばやってきます。思いがけない出来事に驚いて喜んだり悲しんだりしています。かなり前の土曜日に国際hi-b.a.が主催してアロハナイトと言う集会が渋谷のhi-b.a.センターで行われました。日本のhi-b.a.と協力して行ったのですが、飯塚りりこという姉妹がプログラムのほとんどの時間でハワイから来た夫妻の伴奏と組んで賛美フラのソロを踊っていました。この人は日本hi-b.a.の卒業生で、その10年あまり前に彼女のお姉さんから妹を紹介されて「リリコは将来歌手になりたいと思っているんです」と言われて「本当に大丈夫なのかしら」と危ぶんだものでした。あれから10年以上経って、少し道は違ったけど、その妹が立派に賛美フラのダンサーとして踊っているのを見て、うれしい驚きに満たされました。同時に彼女のhi-b.a.時代の二人の同期生が彼女の賛美フラを見に来ているのに会ってまたもや嬉しい驚きを経験しました。私の集会の卒業生ではなかったけれど、一人の姉妹のお母さんは私の集会の生徒でした。この二人はリリコと今も連絡を取り続けているそうで何かあれば駆けつけるというような仲だそうでした。感謝を伴った驚きでした。

今日取り上げる女性は、この一日で数多くの驚きを体験しています。彼女の名前は記録されていません。出来事を彼女自身に語らせるとすればこのようになるでしょうか。

「あたしの名前は何かって? そんなことどうでもいいのよ。それより聞いてほしいのは驚きの連続だったあの日のことよ。いつも通り村の皆が来ない時を見計らって、村はずれの井戸に出かけたわ。どうして皆が来ない時に行ったのかって? それは後で話します。とにかく一日に必要な水を汲んで早く帰ろうと共同井戸のそばに来ると、見慣れない男がいるじゃない、それが第一の驚きよ。身なりを見るとユダヤ人らしい、しかも男です。ユダヤ人は私たちサマリヤ人を見下してて、ましてや男ときたら女は汚らわしいもののように扱って話しかけもしなかったの。あたしはこれ幸いと、早く水を汲んで家に帰ろうとしたときよ、その人が言うじゃない。
「すみませんが水をいっぱい飲ませてください」
だから驚いてあたしは言ったの。
「あれまぁ。あんたユダヤ人じゃないのさ。あたしはサマリヤ人の女だよ。なのにどうして水を飲ませてくれなんて頼むのさ」
そう言ったらこの人は怒るかしら?それとも下に出てもう一度頼むかしら、と試すような気持ちがあったのね。次の驚きは、この人の返事はそのどちらでもなかったの。こう言うのよ。
「もし神様があなたにどんなにすばらしい贈り物を用意しておられるか、また、私が誰かを知ってさえいたら、あなたのほうから、いのちの水をくれと願ったでしょうね」
ええ?あんたが誰かって? 初対面のあんたを知ってるわけないでしょ。変なおじさんね。だからあたしは言ったの。
「あんたは水を汲む桶も綱も持ってないじゃないか。この井戸はとても深いんだよ。そのいのちの水をいったいどっからくむのさ。あんたはあたしたちのご先祖ヤコブ様よりも偉いってのかい。ヤコブ様はこの井戸をあたしたちにくれたんだよ。ヤコブ様も、その子孫も、家畜もみ―んな、この井戸の水を喜んで飲んだんだ。これよりいい水をくれるってのかい?」
その人は言いました。「この水を飲んでも、すぐにまたのどが渇きます。けれどもわたしがあげる水を飲めば、絶対に渇くことはないのだよ。わたしがあげる水はそれを飲む人のうちで、永久に枯れない泉となり、いつまでも、その人を永遠の命で潤すのだから」
あたしは思ったね。絶対に渇かない水なんてどんなにいいかしら。井戸の水のことだけじゃないのよ。あたしの人生にも渇かないものを求めて、ずーっときたんだわ。女の幸せは結婚にあると思っていたから、夢をいだいて結婚したわ、でもその夫はあたしの夢をかなえてくれなかった。だから夫を取り替えたんだわ。二人目の夫も満たしてくれなかった。  
次々に替えて5人まで取り替えたんだけど、だれも満足させてくれなかったのよ。今いっしょに住んでる男は正式に結婚した夫じゃなくて、同棲してるだけなの。
それにしても、永久に枯れない泉なんてどんなにいいかしら。
「先生。その水をあたしにくださいよ。そうすりゃ、のども渇かないし、毎日こんな遠くまで、てくてく歩いてさ、水汲みにこなくてすむもの」その人が言った言葉が次の驚きでした。「帰って夫を連れてきなさい」ウワッ。これを言われるのがあたしの弱いところなの。だからこそ他の女が来てないときを見計らって水を汲みに来てるのに。でもこの人は旅人なんだし、わかりっこないから適当に言っちゃおう。うそじゃないんだから。
「でもあたし結婚なんかしてない」
やれやれ、これでこの話題は終わるのかなと思ったのに、次の言葉が驚きなのよ。「それもそうだ。あなたは5回も結婚したけれど、今一緒に暮らしている男は、確かに夫じゃないね」えーっ。会ったこともないあたしのことをどうしてそんなにまでよく知ってるの。この人、ただの旅人なんかじゃない。預言者かしら。預言者だとしたら偶然出会ったのが幸いだわ。心にある質問をいろいろ聞いちゃおう。「先生。あなた様は預言者でしょう。だったら教えてくださいよ。ユダヤ人は礼拝の場所はエルサレムだけだと言いはるし、サマリヤ人はあたしたちのご先祖様が礼拝した、このゲリジム山だと言ってる。どうしてなんです?」これで話題はあたしのことから一転して信仰的な話題になったでしょ。その方は、それじゃあ話題が違うじゃないかとも言わないで、真正面から答えてくれたの。本当に驚いた人だわ。
「いいかね。父なる神様を礼拝する場所は、この山か、それともエルサレムか、などとこだわる必要のないときが来るのだよ。大切なのはどこで礼拝するかじゃない。どのように礼拝するかだよ。霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのだ。神様は霊なるお方だから、正しい礼拝をするには、聖霊様の助けが必要だ。神様はそのような礼拝をしてほしいのだよ。あなたがたサマリヤ人は、神様のことはほとんど何も知らないで、ただめくらめっぽうに礼拝しているけれど、私たちユダヤ人は良く知っている。救いはユダヤ人を通してこの世に来るのだからね。」
そうかぁ。場所が大事なんじゃないんだ。でもあたしだって知ってる、いつかメシヤ様が来てくださるって事を。その方が来たら全部教えてくれるんだとわかってる。だからあたしは聞いたのよ「そりゃあね、キリストと呼ばれるメシヤ様がおいでになることだけは知っていますよ。その方がおいでになれば、いっさいのことを説明してくださるんでしょう。」
一番驚いたのは次の言葉です。その人は言いました。「わたしがそのメシヤです」
驚いたのなんのって。変なおじさんどころか預言者なんかでもない、この人はメシヤ様だったんだわ。この人と話していて不思議に心が引きつけられるように感じられたのはそのせいだったのね。メシヤ様が来たんだわ。そうだったらあたし一人でこの方と話してちゃいけないんじゃないかしら。皆にも知らせよう。あたし、駆け出したんです。水がめを置いたまま村に帰って会う人ごとに言いました。
「ねえ、ねえ、来て、会ってごらんよ。あたしのしてきたことを、何もかも言い当てた人がいるのさ。あのかたこそキリスト様に違いないよ」
皆を避けてきたあたしが、皆に進んで話しかけて誘っている自分に驚きでした。そうしないではいられなかったんです。皆がイエス様に会いに来てくれて大勢の信じる人が起こされたのが喜びでした。イエス様もこの村に二日間滞在してくださいました。その間にもっと大勢の人がイエス様を信じるようになりました。そういう人々はあたしに言ったんです。「もう私たちは、お前さんが話してくれたことを聞いたから信じてるんじゃないよ。この方の言われることを、じかに聞いたからさ。この方こそ、ほんとうに世の救い主だ」そういうのを聞いて心から喜べた自分にも驚きました。
驚きついでにもうひとつ驚いたことは後の日のことなんだけど、あの日にイエス様がサマリヤに来てくださったのは実はわざわざであって、あたしに会うためだったということを弟子のヨハネさんが教えてくれたのよ。おかげであたしはイエス様を信じて、喜んでまともな生活をしていけるようになったし、村の人たちもメシヤを信じて喜んだ生活がしていけるようになったんだわ。ずーっとあとでピリポさんがサマリヤに来てくださってまたも大勢の人が信じたのもこのときのことがあったからだと思うわ。でもこの日の出来事はあたしにとってはその日から始まった驚きの連続である生涯の始まりに過ぎなかったんです。その方が言ったとおりあたしの心は渇きませんでした。井戸に水を汲みに来る必要がなくなったわけじゃないけど、皆のいるときに一緒に水を汲みにくるようになったんです。」

さてこの女性の話はここで終わりますが、さらに考えたいのは、私たちはどうしたらよいかということです。よく考えると私たちに必要なのは驚くことがあまりにも少ないのを驚くべきではないでしょうか。驚きには感動が伴う場合が多いでしょう。関心のある事柄でないと見たり経験したりしてもめったに驚きません。弟子たちは女の人が村にもどって行こうとしていたころにお昼ご飯の買い物から帰ってきました。イエス様が女と話していることには驚きましたが、どうしてなのか、何を話しているのか誰も質問しませんでした。無関心、無感動です。関心があったのはお昼ご飯のことでした。そのために買い物に行ったのですから当然だとは言えます。彼らが驚いたのは、買ってきた食物を勧めたのにイエス様は「いや、けっこう。わたしには、あなたがたの知らない食べ物があるんだよ」とおっしゃるではありませんか。「誰かが食べ物を持ってきたんだろう」と言い合ったのも面白いことです。イエス様は「麦畑を見てごらん。その中を走ってくるサマリヤの人たちをごらん。麦は確かに収穫までにはまだ四ヶ月があるだろう。夏にならなくては収穫はできないと言っているんだろう。この人たちを見れば霊的な収穫の時期はすでに来ているとわかるだろう」とおっしゃいました。表面を見るのとは違う聖書に教えられた目で世界を見るとき私たちの心に聖なる驚きが広がります。マタイの福音書9:36〜38「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」

当時のユダヤ人は、食べ物が足りなくて栄養失調でイエス様のところまで歩いてやってくることができず、弱り果てて道端に倒れていたのでしょうか。そうではないに決まっています。中には筋骨隆々の人もいたでしょう。それなのになぜイエス様は人々を「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている、とご覧になって、彼らをかわいそうに思われたのでしょうか。」霊的な目でご覧になったからです。
リビングバイブルでは「ご自分のところにやってくる群衆をご覧になるとイエスの心はずきずき痛みました。彼らのかかえている問題は非常に大きいのに、彼らは、どうしたらよいか、どこへ助けを求めたらよいか、まるでわからないのです。ちょうど羊飼いのいない羊のように。」
驚きに満たされています。私たちも同じ心を持つようにイエス様は言われました。

昔の『百万人の福音』で読んで強いショックを受けた記事を思い出します。確か後に宣教師になったマーラ・モーという女性の伝記だったと思います。彼女が自分の家で友達と話していると窓の外を女学生達が笑いさざめきながら通っていきました。マーラはそれを見て涙を流したのです。友達が驚いて「どうしたの?具合でも悪いの?」と聞くと「見て頂戴。あの人たちは滅びに向かっているのよ」と言ってさらに涙を流したのです。救われて間もない高校生の僕はそれを読んで強い衝撃を受けました。そうか。こういう見方があるのか。こういうふうに人を見るべきなのか。深く考えさせられた時でした。今も忘れられません。

世界の状態を見て、私たちの心もずきずき痛んでいるでしょうか。羊飼いのない羊のような状態を見ているでしょうか。この肉眼では見えない状態を見てとって、驚いているでしょうか。サマリヤの女のような新鮮な驚きをなくしてはいけません。祈り求めていきたいものです。主は聖霊によってあなたを導き、あなたに聖なる驚きと感動を与えてくださいます。